第1章 月神と乙女
「はぁっ、はぁっ」
息が苦しい。どっと吹き出した汗が着物を一層重たく感じさせた。全速力で走り続けて、どれだけの時間が経ったのだろうか。
(なんてドジなんだろう・・・)
いつも袂に入れてある鬼避けの藤の香りの守り袋。今日に限って忘れてしまっていたのだ。
キリカの住む地域は昔から鬼が出没する事で有名だった。麓の村が鬼に襲われたとか、喰われた人の残骸が転がっていたとか、そんな血生臭い話は珍しくはなかった。
(どうしよう・・・。これ以上、無理・・)
人ならざる気配がすぐ後ろまで迫っているのをキリカは感じていた。確認せずとも分かる。この禍々しい気配は、鬼だ。
足はとうの昔に限界を迎えていたが、立ち止まる訳にはいかなかった。立ち止まれば、即ち、死が待っている。
(嫌だ。まだ、死にたくないっ)
視界が涙で滲んだ。血の気が、すうっと引いていく。
「ほうら。きれいなお嬢さん」
鬼の手がキリカの後ろ髪を掠めた。その気になればいつでもキリカを捕まえられるのだ。だが、そうせず、ひたすら追いかけ回した。
美しいキリカをただ食べるだけでは勿体ない。殺す前に楽しませてもらおうと、鬼は歪んだ欲望を浮かべていた。
「もっと早く走らないと捕まえちまうぞ」
「いやぁっ」
下卑た嘲笑と舌なめずりがキリカの耳に飛び込んできた。あまりにもおぞましく、聞いただけで胸が悪くなりそうだった。
「やめてぇっ」
キリカが悲鳴をあげた。キリカの悲鳴に、鬼はますます興奮したようだ。再び、手を伸ばしてくる。
(誰か、助けて!)
キリカの悲痛な訴えが天に通じたのだろうか。一人の長身の男性が姿を現した。
「お願いですっ。助けてくださいっ」
藁にもすがる気持ちで、男性に助けを求めた。
「お願いしますっ」
ざぁっと吹き付けた夜風に、男性の束ねた長髪がゆっくりとたなびいた。
(あ・・)
振り向いた男性と目が合った。淡い月光を背に受けた、その姿はこの世のものとは思えぬほど神々しかった。
(月の神様みたい・・・)
折しも今宵は満月。月から降臨した神のように見えた。
助けを求めた安心感からか、キリカの意識が急激に薄れていく。鬼の声も、夜風の音も何も聞こえない。
そのまま、意識を手放した。