第8章 前兆
「もっとこう、普通にケーキ食うだけかと思ったのに…」
まさか、手作りとは。
「え、食べるよ?」
何言ってるの?と、すみれはきょとんとした顔で答える。
「そうじゃなくて。バースデーソングとか…それにこれ、手作りだろ?」
ディックは目の前にあるケーキを、改めてまじまじと見る。
「あぁ!…コックに頼めば、もっと綺麗なケーキになるけど、ディックに日頃の感謝を伝えたかったから。
いつも、ありがとね。
お誕生日おめでとう!」
すみれが、本当に嬉しそうに、花が咲いたかのように笑う。
たった、それだけの事なのに
トクン トクン
俺の鼓動は静かに、だけど激しく脈を打つ。
「…っ!俺の方こそ、ありがとな」
それはきっと。
先程の変な早とちりしたり、誕生日を祝ってもらったり、慣れない事があったからさ。
「ううん!…あ、ケーキ取り分けるね!今更だけど、食べれないものある?」
「特にないさ。わさびくらい。」
「わさび?」
「日本の食べ物さ。味が…」
すみれは俺の言葉に耳を傾けながら取り分けたせいか、カットしたケーキはバランスが悪く、皿に載せたら横に倒れてしまった。
「ご、ごめん。上手く切れなくて…」
「だいじょーぶ、さ」
俺の皿には、取り分けた際に横に倒れたケーキと、“HAPPY BIRTHDAY DICK”と歪んだ字で書かれたチョコプレートが乗っていた。
(せっかくのケーキが、ぐちゃぐちゃさ。笑)
もっと豪華だったり、華やかだったりした誕生日を、過ごしたこともある。
逆に何もない誕生日を、過ごしたこともある。
なのに何故、毎年ある誕生日くらいで今年は
こんなにも暖かくて、嬉しくて、切ないのだろう。
俺とすみれは二人で、少しだけぐちゃぐちゃになってしまったケーキを食べる。
スポンジが硬めとか、生クリームが甘めとか
フルーツの酸っぱさとか
いろんな感想が出るが「でも美味しいね」と、笑い合う些細な事が、
こんなにも、幸せだ。
“…○○○、おめでとうーーーーー”
「!」
一瞬。本当に一瞬。
とうの昔に、誰かにこうやって祝われた事があるような気がした。
その顔も、声も、呼ばれた名すらも、思い出せないが。
(…もう、思い出す必要も。ないさね。)