第38章 台風一過 前編
「あ、いえ、ただ何となく心配になっただけです」
言ってはいけないことを言ってしまったかの様に、空良は言葉を濁らせ誤魔化した。
「大丈夫だ。俺がしっかりと手を繋いでいてやる。転んだりはせん」
「はい」
柔らかな手がぎゅっと俺の手を握り返す。
こんな些細な事も久しぶりで、俺の心はどうしようもなく揺れ動いた。
まだ長距離の散歩は無理な為、空良と共に馬でゆっくりと京の街を進んだ。
「空良、この場所、覚えておるか?」
「え?」
最初に寄った先は俺たちに縁のある寺。だが空良はキョトンと首を傾げた。
「あの日は夜で暗かったからな、覚えておらんのも無理はない。ここは本能寺だ。俺たちが初めて出会った場所だ」
「あっ!」
何かを思い出したのか、空良は声を上げた。
「私……あの夜は裏口からひっそりと忍び込んだので、正面からこのお寺を見るのは初めてです。……こんなにも、立派なお寺だったんですね」
「ふっ、思い出したのかと思えばそんな事を………。そうであった、貴様は俺の命を狙う刺客であったな」
「ご、ごめんなさい」
「くくっ、謝る事はない。あの事件があったからこそ、今貴様とこうしていられる」
俺の前で申し訳なさげに肩を窄める空良を抱きしめ、髪に口づけを落とした。
「だがこれほどに心を奪われるとはな……、出会いとは不思議なものよ」
「本当ですね。私も、まさか命を奪おうとした殿方とこのように恋に落ちるとは思っても見ませんでした」
空良は照れた様に笑い、俺にそっともたれ掛かる。
あの夜に出会った美しき刺客が、今では俺の腕の中で俺に愛を囁き、その身には俺の子を宿している。
「空良………」
「はい?………んっ」
名前を呼び振り向いた奴の唇を掠めとった。
「……っ、馬上では危険です」
「俺はそんなヘマはせん。心配ならば、しかと捕まっていろ」
「はっ、はい」
頬を赤く染めた空良は、ぎゅっと俺の体に腕を巻きつけた。
「行くぞ」
あの夜から俺の心に灯された奴の温もりを肌で感じながら、俺は再び馬を歩かせた。