第38章 台風一過 前編
「どの職を賜っても、天下人の称号に相応しいものと思いますが……」
光秀は再度俺にその職を賜るように勧める。いや、光秀だけではない。恐らく織田にいる全ての者のこれは望みなのやもしれん。
「貴様の言いたいことも分かる。俺とて尾張にいる頃は、御所に参内する為に必要な官位を欲した事もあった。だが今、この日ノ本を統べるのに官位など必要ではない」
「ですが以前の官位も既に返上されており、帝としましては、御館様に何らかの形で武士として最高の勲章をと思われているようです」
光秀の言う通り、空良に出会う前に既に権大納言、右大将の地位を俺は返上している。
「俺は帝に言われて動くわけではない。無論、朝廷を蔑ろにするつもりはないが、地位や生まれに関係なく民が生きることのできる世を作ろうという者が冠位を賜るなど滑稽だ」
愛おしい者を愛おしむことの出来ぬ身分制度など、俺には無意味でしかない。
「……承知致しました。…では朝廷にはその様に私からお伝えいたしましょう」
「ふっ、貴様も色々と大変だな」
「褒め言葉として貰っておきます。……所で、空良の様子は如何ですか?朝廷でもその事を心配する声がちらほら聞かれますが……」
「……体は、元気になって来てはいる。だが、心の元気を取り戻す事は出来てはおらん」
「まだ余り、話されませんか?」
「そうだな。……心を、どこかに忘れて来たような、そんな感じだ」
俺を見ているが、見ていないような……初めて安土に来たばかりの頃の奴に少しだけ似ている。
「少し外出が出来るのでしたら、鴨川辺りまで出られてはどうですか?今は桜が咲いていて、心が少し晴れるかもしれません」
「桜…….、もうそんな時期か……」
空良と安土を出た時はまだ梅が咲いていたが……
「少し、奴の心に触れてみるか」
心身共に弱っている空良に辛い心の内を吐露させる事は憚られたが、俺としては奴の真の笑顔を取り戻したい。
「明日は天気も良さそうですし、麻に空良の外出の支度をするよう伝えておきましょう」
「ああ、頼んだ」
光秀はそのまま、書状の返事を伝えに朝廷へと向かった。