第38章 台風一過 前編
「今宵の夕餉は一緒に食べられる。何か食べたいものはあるか?」
「……特に何も…あまり食べたくは……」
「それでは腹の子もひもじかろう?何でもいい、もう少し口にせねば治るものも治らん」
「っ、…そうですよね。私が食べなければこの子にも栄養が届きませんものね」
「そうだ。いくら此奴が腹を空かせておっても、俺が食わせてやる事はできん。貴様が食わねば奴には届かぬ」
この様な言い回しは空良を追い詰める気がして好まぬが、少しでも空良の食欲を取り戻したい俺は、空良の弱みにつけ込むしかない。
「…じゃあ、何か水菓子が食べたいです」
「ふっ、夕餉と言っておるのに水菓子とは……。まぁいいだろう、貴様と腹の子のために、都中の水菓子を買い占めてくるとしよう」
「そ、そんなには食べられません」
「冗談だ。ほら、目を閉じて少し眠れ」
「……はい」
空良の目を手で閉じてやると、空良は直ぐに寝息を立てて眠り始める。まだ、体力がついていない証拠だ。
布団の中を覗けば、空良の片手は俺の胸に添えられ、もう片方の手は、空良自身の腹にそっと添えられている。
当初流れたと思われていた子は、空良いわく、まだ腹の中にいて生きているのだと言う。
あれ程の血を流し生死を彷徨った空良の中にまだ子が生きているとはにわかには信じ難い話で、医師を含め周りの者は皆、子を失った辛さからの現実逃避ではと思っているようだった。
だが寺に戻り三日程すると空良の悪阻が再び始まり、腹も本当に僅かだが膨らみを見せ、これには医師も驚きを見せたが、稀に子が流れた母親に起こりうる現象で、まだ腹の子が本当にいるかどうかは定かではないとの診断を下した。
空良が、子が腹にいると言う根拠は分からぬが、奴がいるのだと言うのならいるのであろう。愛おしそうに腹を撫でる空良の姿は言い表せないほどに綺麗で、そんな奴が俺の側にいる。それだけで俺にはもう十分だった。
だが今回の事件は空良の心に大きな傷を残した事は確かで、以前の空良に戻るには時が解決する他なさそうに見えた。