第10章 月の姫
信長様の元を離れる日は、思わぬ形でやってきた。
「空良を迎えに来たよ」
「........え?」
「遅くなってごめんね。本当はもっと早く迎えに来たかったんだけど、空良が天主に閉じ込められて城の中の警備がかなり強化されて近づけなかったんだ」
そうなんだ...
確かに、顕如様からの刺客はあの毒針を渡された一度だけで、その後ももっと頻繁に現れると思っていたけどなかった。
「いくら顕如様の指示だからって、空良にこんな事、辛かったよね?」
私の手を握る蘭丸様の手に更に力が籠り、心底心配してくれていた事が分かる。
顕如様の指示とは、信長様の命を取り損ねた場合、信長様を拐かし愛妾となって、顕如様からの刺客の手助けをすると言うものだった。
本能寺の前夜その事を顕如様に聞かされた私は、そんな事が私に務まるはずが無いと思っていたし、失敗すれば命はなく、父と母の元へと行けると覚悟を決めていた為あまり深くは考えていなかった。
だけど、今この状況は蘭丸様から見れば顕如様の指示通りと言う事になるのかもしれない。
「今は明るいし見張りも多くて連れ出せないけど、夜になったら天主を抜け出してここに来て。俺が必ず助け出してあげる」
「でも、信長様は眠りが浅くて抜け出すなんて事は......」
「大丈夫。これを今夜信長様のお酒に入れて飲ませて」
蘭丸様はそう言うと、私の手に包み紙を握らせた。
もしかして、毒?
ドクンと胸が嫌な音で跳ねた。
「心配しないで、これは毒じゃなくて睡眠薬だから。それに信長様には毒は殆ど効かないんだ」
「そう........なんですか?」
じゃあ、あの日の毒針は?
「あの人は幼い頃から親兄弟に命を狙われてきたから、毒の耐性訓練を積んでてちょっとの毒位じゃ効かない。この睡眠薬だけが唯一信長様に効くんだ」
あの毒針は最初から効いて無かったんだ。
『兄弟なら何人かおる。殺した者もおるがな.....』
この城に来たばかりの頃、信長様がそんな事を言っていた事を思い出した。
あの頃は、血も涙もない冷血な魔王だと思っていたから何もその言葉に感じなかったけど、今なら分かる。
毒の耐性をつけなければならない程に、信長様自身もとても辛い思いをして生きて来たんだと言う事を。