第3章 2話
目を逸らし床を見つめながら言う。相手の返答はなかった。恐る恐る顔を上げ表情をうかがう。
いつも表情の変化に乏しい彼の少し幼くみえる、あどけない表情。それはまるで、私よりいくつか年下の少年のようにも見えた。あら、と思った。このひと、こんな表情もできるのね。
どこか、夢でもみている気分だった。急に、何か約束をしたくなった。指切りをしたくなった。
私の小さな発見は、胸の内にどろりとした膿のようなものをもたらした。
私もつい思考を止める。しばらく、時が止まったかのようにお互い静止していた。膿はじくりじくりとうずいている。これ、ほんとうに。そして永久にも思えるそれを壊したのは、彼の消えかかりそうな声だった。
「義勇、冨岡義勇という」
「あら、冨岡さん。素敵なお名前ですね」
こんなにも彼の名前を聞きたがっていたというのに、私は笑いながらなんともないように、当たり障りのない返事をした。けれどもう一度呼びたくなってしまって噛み締めるように「冨岡さん」と、呼ぶ。彼は小さく頷いた。
「またお店、いらしてくださいね。いつでもお待ちしております」
「あぁ」と愛想なく冨岡さんは頷かれる。話が途切れることを恐れ私は、「そういえばいつも鮭大根ばかり頼まれますけど、お好きなんですか?」と繋げた。
冨岡さんは少しばかり間をあけて頷く。「良かった、作ったのは父ですから、伝えておきます」と返すと冨岡さんは「そうか、ありがとう」とだけおっしゃられた。せっかく会話出来たというのに、話が広がらないことに多少焦りをおぼえた。
話を続けるためにとりあえず座って貰おうと、冨岡さんが普段座るところの椅子を引く。
「また今日も鮭大根でしょうか?」
「いや、今日はこれで失礼する」
冨岡さんは淡々と言うと、その珍しい柄の羽織を翻し、一度も振り返らずに去っていった。遠ざかる背中を見つめながら、誰にも聞こえないくらい小さく「いかないで」と呟いてみた。なんだか悪いことをしている気分になってしまい、自嘲気味に笑ってみたけれど、その日はもう何も起きなかった。