第2章 1話
二
好きな人ができたの、と厨房で料理するお父さまの汗ばんだ背中に告白すると、菜切包丁がまな板とぶつかって大きな音
が立てたのが聞こえた。暴れているお父さまをなだめながら、本当に好きなんだから、しょうがないじゃない、とひとりごちる。
わたしが恋心を寄せている方は、寡黙で綺麗な人だった。整った顔立ちをなさっていた。週に二度ほど私の定食屋に顔を出しては、「鮭大根」と一言だけ注文を告げ、あとはずっと黙って皿をつついていた。
私はいつも厨房で、その光景を見つめていた。目元にまつ毛の影がかかる様子、長く伸ばされた黒髪を耳にかけるときの仕草の流麗さ。それらを見ながら、妙に胸が苦しくなるような、痛いような辛いような、叫び出したくなる衝動に駆られていたのだ。
そしてある時私は気がついた。
これ、恋をしている。私あのお方が好きなのかもしれない。あの方が視界に入ると気を取られ過ぎてお茶をこぼすのが三度目になったあたりで、ようやく私は自分の感情に名前を付けられたのだった。
恋心を自覚してからも、しばらくは自分から行動できないでいた。元来、自分の主張や願望を無理に通す性格でもないから、私は鮭大根を黙々と食べるあの方を遠目から見るだけで、満足できると思っていた。
体にまとわりつくように空気が湿っていて、雨でも降り出しそうなある日のことだった。思えばその日は、全ての始まりだったのかもしれない。鮭大根を注文した後あの方は、そのまま店の端の方の席に座った。
それがいけなかった。その場所はちょうど柱でうまく隠れるものだから、私はいつもより大胆に不躾に、彼を見つめてしまった。自分の視線に熱がこもるのを感じる。自分でもそれに気がついていながら、あの人がたまたま、こちらを向いてしまうかもしれない、こっそりと見つめているのが見つかってしまうかもしれないと言った、焦りのような楽しさのような、えもいわれぬ感情で満たされた。
わたしがしばらくそうしていると、名前もわからないその方は、急に横を向いた。しまった、と思った。ほんの一瞬だけ目が合う。私は慌てて目を逸らし逃げたから、彼がどんな表情をしているかはわからなかったけれど、おそらく気が付かれてないだろうと、必死に自分に言い聞かせた。手に持っていたおしぼり、やけにぬるく感じた。