第7章 6話
私が何回か頷き返事をすると、冨岡さんは私と目を合わせないまま、「家まで送ろう」とおっしゃった。
冨岡さんはもったりと歩き出した。それについていく私の足取りも決して軽くはない。冨岡さんの、一歩後ろを歩いた。広い背中を穴が開きそうなほどほど眺めた。
「あの、すみません。送っていただいて……、冨岡さんもご用事があったでしょうに」
こんな夜更けになんの用事があったのかは、尋ねられなかった。
「いや、問題ない」
冨岡さんは淡白に返す。冷たい声音は静寂のせいで、余計冷たさをもって感じられた。それに気がついたのか、冨岡さんは首だけで後ろを振り返った。私がついてきているのを確認すると、目を細める。
「あの」
「どうした」
「ええと」
要領を得ない私の物言いを、冨岡さんは辛抱強く待ってくださった。なぜあの日、口付けをしたのですか? とは口が裂けても聞けなかった。聞いた途端、なにかがはらはらと崩れ落ちてしまう気すらしたからだ。私は博打が打てない。臆病だった。
「なんでもないんです」
「そうか」
「冨岡さん」と懲りずに私は彼の名前を呼んだ。子供のように舌っ足らずな言い方になった。冨岡さんは目線だけで返事を返した。
「月が」私は空を見上げた。丸い月が空の高い所で、白く輝いていた。その光は私たちに降り注いでいた。
「月が綺麗ですね」
冨岡さんの影が揺れた。彼は一瞬足を止め、肩を小さく震わせた後、静止した。彼はまた、「そうか」と仰った。先程とどこか違ったように聞こえた。
私は冨岡さんの影を追い越すと、彼の隣に並んだ。肩と肩が軽く触れ合う。上着越しに彼の冷たい体温を感じた。冨岡さんは私の行動を咎めはしなかった。
「今日は、どうにも眠れなくって。いえ、いつもなんですけど」
「……なにかあったのか?」
「特に、なにも」
貴方のせいです、と言ってしまいたかったけれど、眩い月の光が私の口の中にわっと侵入してきて、それを止めた。月は、綺麗であればあるほど良い。
「最近はいかがですか。お元気にされていますか」
「なぜそんな事を聞く」
「なんだか冨岡さん、嬉しそうな感じですから」
冨岡さんは少し考えこむような仕草をした。彼はぽつりと呟いた。
「嬉しいことは、先程あった」