第7章 6話
手だ。手と口の隙間から、空気がひゅうひゅうと漏れた。殺される、と思って体が固まった。動けなかった。まるで石のようになった体に次に訪れたのは、刺すような頬の痛みと鼓膜を震わせる乾いた音だった。
「なにをしている!」
私の頬をぶったのは、私の好きな人だった。
「と、冨岡さ……」
「何をしていると言っている、こんな夜更けに」
冨岡さんの声は厳しく、冷たかった。刃物のように思えた。彼はいつも通り珍しい柄の羽織を羽織っており、腰には刀を帯刀していた。あの雷の日から初めて会う。
「あの、私、眠れなくって……」
「夜は危ない。出歩くな。さっきだって抵抗できていなかっただろう」
恐る恐る述べる私を、冨岡さんはぴしゃりと跳ね除けた。それに、と冨岡さんは続けた。
夜は、鬼が出る。
鬼? と私は聞き返した。冨岡さんは頷く。私はもう、何が何だかわからなくてほとんど泣いていた。張られた頬には鋭い痛みが残っているし、目の前の冨岡さんは怖いし、彼が何の話をしているのか分からないのも余計私を不安にさせた。
涙が目から零れて、頬を滑り落ちた。目じりから顎先へと伝わる感触が妙に生々しく、気持ち悪かった。冨岡さんを困らせてしまう、止めたい。止めたいけど、難しい。
痛みで誤魔化そうと、唇を噛み強く拳を握った。私のささやかな抵抗すら、冨岡さんは認めなかった。先程の厳しい表情から一転、眉を垂れ下げると、ふっと小さく息を漏らした。
彼は私の手を取ると、きつく結ばれた拳をゆっくりと解いた。私の手が宙を浮いて、所在なさげに漂う。彼はそれを確認すると、頬に手を伸ばし、人差し指で器用に涙を掬いとった。
「泣かせてすまない」と、小さな声。今が夜で、空気の流れしか聞こえないくらいとても静かで、二人きりでないと、いや、私でないと聞き逃してしまいそうなほどの声量だった。
この人、女の涙が上手に拭えるんだわ。ふと、考えた。
冨岡さんには、そのような相手がいらっしゃるのだろうか。いたとしたら、なぜ私に口付けをしたのだろう。なぜ。例の疑問が縛るように私に絡みつく。
少し口下手で不器用で、言葉足らずの方に思えるけれど、涙をぬぐう指だけは器用で、優しさを感じさせた。涙は自然に止まってた。「すまなかった」と静かな声が聞こえた。