第6章 5話
「今日はなにかあったんですか? いつもと雰囲気が違くいらっしゃるから」
「……少しだけ、やるせないことがあった」
誰の目もない、二人きりの店内だと思うと、私の態度は自然と柔らかくなった。目の前の相手に心を開いてみたくなる。胸をぱっくりと開いて、心臓を見せたくなる。
平生は必ず複数人がいる空間にふたりきり、というのも非日常のようで胸が踊った。その弾む鼓動を意識しないようにしながら、私は正面に座る冨岡さんの瞳を見つめた。
「それは……、苦しかったですね」
共感するような表情を見せると、冨岡さんは軽く目をむいた。薄くてひび割れた、男の人の唇が、とある四文字を唱えた。それは声にはならなかったが、私には呪文のように聞こえた。
――ねえさん。
気が付かない振りをした。目を逸らした。昔ついた机の上の染みが、やけに黒ずんで見えた。
冨岡さんもそれっきり何も言わず、無言の食事が暫く続いた。日はもうとっくに落ちていて、室内は闇に包まれている。静寂の中に、冨岡さんがかちゃかちゃと箸を動かす音だけが響いた。
彼の表情が伺えないのを不安に思い、「電気をつけますね」と席を立とうとした時だった。
暗闇は轟音に包まれ、地面の揺れが足の裏にはっきりと伝わってきた。雷だ。閃光は見えなかった。音だけが響く。雷鳴が鳴り止まないうちに、屋根に追い立てるような勢いで雨粒がぶつかり始めた。
あっ、と声を上げる。驚き跳ねた体にぶつかり、椅子が倒れた。
冨岡さんも立ち上がる気配がした。私の動揺を収めようとしてくださったのか、彼は私に近づく。それはむっと強くなった血の匂いでわかった。
私は、私の正面に存在しているであろう、分厚い胸元にすがりついた。手は正確に彼の羽織を掴む。顔を寄せると、おでこに洋服のボタンがぶつかって冷たい感触がした。
「冨岡さん、冨岡さん……」
気が動転したように私は彼の名前を呼んだ。私の体は震えていた。けれど、私はどこか冷静であった。暗闇の中、彼の位置を思い出しつつ容易につきとめられるほどには。
冨岡さんは私を受け入れてくださった。私の震えを止めるように、大きくて硬い手のひらで、私の後頭部を撫でた。何度も何度も撫でながら、「大丈夫だ」と低い声で囁かれた。