第5章 御都合ライアー!【トレイ】
「……ヒカル。」
ヒカルがトレイの名前を呼んだように、今度はトレイがヒカルの名前を呼んだ。
ヒカルとは違って、トレイは最初からヒカルのことを呼び捨てる。
けれども、こんなふうに甘く、愛おしそうに呼ばれた記憶なんかない。
「ヒカル。」
以前のトレイは、どんな声でヒカルを呼んでいたのだろう。
思い出そうとしてみても、ヒカルの記憶を上塗りするように何度も名前を呼ばれ続ける。
意図的に空けた距離が失われ、片腕だけで肩を抱かれて髪先を弄ばれる。
トレイの腕は想像していたよりも太く硬く、ヒカルの逃げ道を塞ぐ。
距離を空けることも、ましてや顔を背けることもできず、緊張に震える唇を吸われた。
「ん……。」
少なくとも、ヒカルの記憶の中では二度目のキス。
しかし、真実は違うのだろう。
トレイが与えてくる口づけは、まるで日常的にしているかのように手馴れている。
昨日と同じように、トレイの舌は遠慮の欠片もなくヒカルの口内に侵入してきて、あちらこちらを舐め回す。
合わさった舌から移るシトラスの味が懐かしいような、懐かしくないような、奇妙な気分だ。
「ふ、う……。」
舌が絡まり、ちゅうっと吸われたら、鼻から漏れる息に艶が増す。
ヒカルを引き寄せ離さなかったトレイの腕が、ぴくりと震えて強張った。
どうしたんだろう、と思う暇もなく、一方的に体重をかけられてヒカルの身体がベッドへ沈んだ。
「あ……ッ」
ハーツラビュルのベッドは、使い古したオンボロ寮のベッドと違って軋まない。
二人分の重さを容易く受け止めたベッドで、恋人であるはずの人に押し倒された。
この先に何が待ち受けているのかを知らぬほど、ヒカルは初心でも乙女でもなかった。