第10章 灰色の雨
『きっと一国の主の姫に違いない。これで、安土はまた賑やかになるな。』
『城の中は、献上品や姫への貢ぎ物で一杯だそうだ。』
あさひは、町人の話し声に顔色ひとつ変えず聞いていた。
『…あさひ様?』
店主が怖々と声をかけた。
「この糸、頂いていきますね。」
『あ、あぁ。ありがとうございます…』
「では、失礼します。」
『あ、あさひ様! お待ちください!』
店主の声は、あさひに聞こえていた。
しかし、あさひは振り返らずに走り去った。
風が湿り気を帯びて、髪にまとわりつく。
あさひはゆっくりと城に向かって歩いていた。
角を曲がれば城門が見える。
動いていた足が、足枷が付くように重くなった。
(帰りたくないな…)
「帰る? 何処へ?」
頭のなかで自分の声のような、違うような何かが聞こえた。
(何処へ…)
あさひは振り返り、城を背にして走り出した。
雨がぽつりと降りだした。
はっ、はっ、はぁ。
どのくらい走っただろう。
行くあてもなく走っていたのに、そこは鷹狩りで以前訪れた丘だった。
あの時に見た幸せな花畑も、鮮やかな緑も何も見えなかった。
「ふふふ、あはは。」
意味もわからず込み上げる笑いと涙。
(信長様が他国の姫を正室に迎える。
城は献上や貢ぎ物で一杯。
姫は武将達に認められている。
なんだ、やっぱりそうだった。
祝言挙げるんだ。私は知らなかった、知らされなかった。
私はもう、もう、いらない。)
先ほどまでの風が止み、弱い雨が肌を濡らし始めた。
(帰れば良かったのかな。)
疑わなかった自分の居場所が、がらがらと崩れていくのがわかった。
『あれ? あさひさん?』
背後から聞き慣れた、けれど居るはずのない声が聞こえて、振り返った。
「佐助くん…」
『一人でこんな時間にどうしたの?』
血相を変えてあさひの側へ駆け寄る。
「佐助くんこそ、仕事?」
『うん、まぁ、そんなとこ。
あさひさんは?誰か共をつけてきたの?』
「ううん、飛び出してきちゃった。」
『え?』
「…正確に言うと、買い物に城下へ出て、その後ここに来た。」
『なにか、あったの?』
ふふっと、泣き腫らした目で佐助を見てあさひは、話始めた。