第82章 誘惑
「っ…あっ…はぁ…はぁ…」
溜めていた息を吐き出し、忙しなく息を吸う。
荒く乱れた呼吸を整えようと、上下する胸を押さえる綾姫の頭上から、至極冷静で乱れを一切感じない声が落ちてくる。
「どうした?俺を楽しませてくれるのではないのか?」
「っ、うっ…………」
ゆっくりと顔を上げると、美しい顔を残酷なまでに歪めて見下ろす信長の姿が目に入る。
女の自分に対しても、甘さなど微塵も感じさせない。
(っ…怖いっ…これが…魔王と呼ばれる人なの…)
「………己の立場を理解したなら、下がるがよい」
冷たく突き離すように言う、その背中に向かって、それでも精一杯の虚勢を張ってみせる。
そんな態度が、信長の怒りに、更に火を付けることになるなどとは、思いもせずに………
「九条家の姫である私に、こ、このような酷い侮辱…いかに信長様といえど、許されませんわよっ!」
「ほぅ……その程度の誘惑で俺が落ちると、本気で思っておったのか?それこそ浅はかというものだ。
許されぬ、とは何だ?俺を軽く見るでないわ」
嘲笑うように口角を歪める様は、酷く意地が悪く見える。
普段の信長ならば、女相手にここまで挑発的になったりはしない。
ましてや、相手は名門、九条家の姫。
その父は、摂政の職にあり、帝の信頼も厚い。今ここで、下手に機嫌を損ねるのは拙い相手だ。
そういった種々の計算が出来ぬ男ではない。
面倒な、公家衆や朝廷との付き合いも、波風を立てぬ程度に上手くやってきたのだ。
心の中では苦々しく思っていても、男を知らぬ女ひとり、機嫌を損ねないようにあしらうことなど、百戦錬磨の信長にとっては造作もないことだった。
だが……度重なる苛立ちと、酒による酔いが、信長の心を乱していた。
大人げない、冷静にならなくては、と頭では理解していても気持ちが追いつかない。
売り言葉に買い言葉で、気持ちとは裏腹に歯車が狂い始める。
「っ…私に対するこの不当な扱いは、父上に申し上げて、帝へ訴えて頂きますっ!」
「はっ…生意気なっ!このような些末なことを、帝へ申し上げるなど……それこそ不敬というものだ」
「っ………」
互いに睨み合い、無言で牽制し合う始末。
暫くそうしていたが、無言の圧力に耐え切れなくなった綾姫は、信長をキッと睨むと、バタバタと部屋を出ていった。
「はああぁぁ…………」