第82章 誘惑
翌日の昼過ぎ、信長は急な呼び出しを受け、内裏へ参内していた。
用件は聞かずとも分かっている、昨夜の一件だ。
普段なら、ああでもない、こうでもない、とグズグズと不毛な話し合いばかりで決断の遅い公家たちが、こんな時だけ一致団結して、早々に俺を呼びつけようというのだから、甚だ滑稽である。
公家の世界は、表面上はお上品だが、裏に回れば、騙し騙され、足の引っ張り合いが日常茶飯事。
おまけに、破廉恥な醜聞は、常日頃、暇を持て余している彼奴らには格好の話題だろう。
「信長さん、また面倒なことになっとりますな」
「……近衛殿か」
御所へ上がり、帝への拝謁を待つ間、別室で控えていた俺の元へ、ふらりとやってきたのは、旧知の仲である、関白、近衛前久だった。
この男とは付き合いも長く、公家衆の中では唯一、腹を割って本音で話が出来る。
他の公家たちや帝からの信頼も厚く、関白という高位にあるにも関わらず、公家らしくない奔放なところが気に入っており、上洛するたびに親しく酒を酌み交わしたり、共通の趣味である鷹狩りに出かけたりと、交流を深めていた。
勿論、ただ親しい友人というだけでなく、互いに利害関係もあり、朝廷との交渉においても、信長が信頼を寄せている男であった。
「九条家の姫さんと一悶着起こしはったとか?信長さんにしては珍しいですな。女衆とは、なんだかんだで、後腐れなく上手いこと遊んではったですやろ?」
「……人聞きの悪い言い方をするな。それは昔の話だろうが」
ニヤニヤと楽しそうに笑う前久に、信長は、苦々しく不満そうな顔を隠そうともしない。
「そうやった、そうやった。今は奥方さん一筋でしたな。大層評判の美女やそうで……せやけど、九条の姫さんも、なかなかの美人さんでしたやろ?」
「………知らん」
前久の揶揄いが苦々しいのもあったが、綾姫が美人だったかと問われても、そう言われればそうだったか、ぐらいの興味しかなかったので、よく覚えていない。
「公家衆は皆、信長さんと縁を結びたがっておりますからな……京は誘惑が多いですやろ?」
「ふっ……京の水は俺には合わん。美しくとも気位ばかり高くて…うっかり喰らえば、食当たりを起こしそうだ」