第82章 誘惑
夕餉の後、早々に宿所の自らの部屋へと戻った信長は、湯浴みを済ませてから、縁側へ出て月を見ながら盃を傾けていた。
今宵は満月らしく、丸く大きな月は煌々と輝き、その淡白く輝く光は、部屋の中にも明るく射し込んでいる。
一人、手酌で飲む酒は、いつもより酒量も増え、盃を空ける頻度も自然と早くなっていた。
普段から、人前で酔った姿を見せぬために、京では酒は控えるようにしてきた。公家衆から招かれる酒宴の席でも、相手方に付け入る隙を見せぬように常に気を張っており、酔うほど飲むということはない。
自分で酒量を忘れるほど飲むことは滅多になく、それは余程気を許した相手との酒席ぐらいだった。
だが今は……昼間からの度重なる苛立ちを紛らわすように、次々と酒をあおっている。
このような飲み方は、秀吉がおれば口煩く嗜められるところだが…あの世話焼きは、今頃は大層気を揉んでいることだろう。
上洛には常に同行してきた秀吉を、此度は大坂に留守居として残してきたのは、ひとえに朱里の為だった。
兄のように慕っている秀吉が傍におれば、不安な気持ちも少しは和らぐであろう…世話焼きの彼奴は、いつも朱里を気にかけているから、何かあってもすぐに気づいてやれるだろうと、そう思ったからだった。
(朱里…今、何をしている?もう眠っているだろうか…一人で寂しい思いをしてはいないだろうか…)
盃を置き、腕を枕に縁側にゴロリと横になる。
固い床板は冷んやりと無機質で信長の心を冷やし、愛しい女の温かくて柔らかな膝が無性に恋しくなった。
優しい手つきで髪を梳く華奢な手
愉しげな笑みを含んだ鈴の音のような涼やかな声
ぽってりとして柔らかな、重ねれば甘味のように甘い唇
『信長さま』と、名を呼んで強請る艶やかな啼き声が頭の奥に響き、腰をずくりと疼かせる。
足りない
朱里が足りない
その姿を、声を、想像するだけで、激しく欲情する。
酔いが回ったのか、身体が火照って熱く疼いている。
身体の中心がズクズクと脈打ち、その存在を徐々に主張するかのように、ゆっくりと夜着の前を持ち上げてきていた。
どうしようもなく苦しくて、今はただ、膨れ上がった熱を発散したくて堪らなかった。
「っ……はぁ…」
我知らず口中に溜まっていた唾液を、ゴクリと喉を鳴らして嚥下すると、続けて悩ましい吐息が零れ落ちた。