第82章 誘惑
口調は冷たかったけど、優しく気遣われたことで、恐ろしさは吹き飛んでしまった。
今はただ、もっと近づきたい、と思うけれど……
「もうっ!また避けられてしまいましたわっ!このままでは、埒があきませんわね…」
綾姫は、信長が出ていった先を恨めしげに見遣りながら、憤っている。
(綾姫様は、信長様にも物怖じせずにお話なさって…羨ましいわ。
私なんて、自分から声もかけられないのに)
父からは、この滞在中に何としても信長様のお手つきになるように、と命じられている。
殿方と親しく接したこともない自分には、正直言って荷が重い。
信長様は、公家衆からこれまでに何度も縁組を持ちかけられているようだが、全て断られているらしい。
公家衆との縁組は、織田家にとっても有益なはずなのに、信長様の態度は頑ななのだという。
大坂に、大層ご寵愛なされている女人がいらっしゃるとか…あの男らしい信長様に愛される方とは、どんな御方なのだろう。
一人物想いに耽る雪姫を尻目に、綾姫は焦っていた。
夕餉の時間も、特に話が弾むこともなく、信長様からは終始、距離を取られてしまっていた。
正室を娶られるまでは、京での信長様の女遊びは評判で、上洛のたびに違う女人を閨に侍らせている、と噂になるほどだったというのに、私たちに少しも興味を示して下さらないなんて……
一夜限りのお相手と後腐れのない身体だけの関係を愉しむ大人の男性
公家の姫君たちの間でも、地位も権力もあり男らしい魅力に溢れた信長様の人気は高く、一夜限りでもお相手したい、と秘かに願う姫たちも多かった。
(他の女に見向きもされなくなるぐらい、今は御正室を愛してらっしゃるというの?
でも…傍にいなければ、信長様だって男だもの、心移りなさることだって……)
(どんなにできた男性だって、妻の目が届かぬところでは浮気心が働くはず……閨で迫れば、私にだって振り向いて下さるはずだわ)