第82章 誘惑
苦虫を噛み潰したような顔で荒々しく廊下を歩く信長の後を、半歩下がってついていきながら、光秀はくくっ…と聞こえるか聞こえないかぐらいの、小さな笑い声を溢す。
「…………何か言いたそうだな、光秀」
小さな笑い声を耳ざとく聞き咎めた信長は、至極不満げな声で、振り返りもせずに言う。
「これはご無礼を……しかし、御館様も隅に置けませぬな」
「……何のことだ?」
「綾姫様のあの熱っぽい目、あれは恋焦がれる男を見る目でしたぞ。公家の箱入り娘を一目で虜になさるとは、どのような手管をお使いになられましたので?」
ニヤニヤと意地悪そうに笑う光秀を、信長は心底嫌そうな顔で睨みつける。
「たわけ、他人事だと思って勝手なことを言いおって。御所では公家どもに捕まり、ここでは女どもに迫られるとは…まったく、京には俺の気の休まる場所はないな」
言いながら、また苛立ちが湧いてきたのか、信長はギリっと唇を噛む。
「さっさと塀の修繕を終わらせて、大坂へ帰るぞ、光秀」
「はっ!」
天下を平穏に保つために、朝廷や公家衆との関係の強化は重要だ。
朝廷の権威は形骸化しているとはいえ、蔑ろにはできない。
武力だけでは、この世を治められないのだ。
分かってはいるが……本音で語れぬ相手との付き合いは、まどろっこしくて煩わしい。
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(まったく、何故にこんなことに………)
目の前に置かれた夕餉の膳と、その左右に座る二人の姫の姿を見て、信長は秘かに頭を抱えていた。
今宵の夕餉は、明日以降の打ち合わせも兼ねて、光秀と共にとるつもりであったのだが……
知らぬ間に、二人の姫が同席することになっていたのだった。
改めて見てみると、二人の姫はまるで正反対の性格のようだ。
九条家の綾姫は、勝ち気で積極的な性格らしく、物怖じせずに俺にも話しかけてくる。
三条家の雪姫は、大人しく控えめな性格なのか、家格が上の綾姫に遠慮しているのか、自分からはあまり話さない。
俺を恐れているのか、今も、俯いてばかりで…食事も進んでいないようだ。
「姫、如何なされた?あまり箸が進んでおらんようだが?」
見かねて声をかけると、驚いてビクッと肩を震わせる。
(やはり怯えているのか…随分と気弱なことよ)
「あ、あのぅ…私、その…山菜が苦手で…」
(…………は?)