第82章 誘惑
「「信長様、お帰りなさいませ!」」
寺の玄関口で、二人の姫に三つ指をついて出迎えられた信長は、予想どおりの展開に、もはや溜め息すら出てこなかった。
「……俺が戻るまでに帰るよう、命じたはずだが?」
男の家臣たちですら震え上がるほどの、感情を伴わない冷たい声音で言うと、二人はビクッと身体を震わせる。
恐る恐る顔を上げた二人に、信長の冷え切った氷のような視線が突き刺さる。
「「っ………」」
蛇に睨まれた蛙のように、口を閉ざし、その場から動けなくなってしまった二人の横をあっさりとすり抜けた信長は、光秀を従えてさっさと寺内へ入っていく。
二人がハッと我に返った時には、もう信長の姿はなく……
「っ…悔しいっ…何なの、あの態度…我が九条家は、由緒正しき五摂家の家柄なのよっ!それを、天下人だからって…っ、ちょっと、いえ、かなり、美丈夫だからって……私達を簡単に袖にしていいはずないのよっ!」
「あ、綾様…落ち着いて下さいませ。でも…どうしましょう?こんな風に避けられてしまっては、側室なんて、夢のまた夢ですわ」
「まぁ、雪様、そんな弱気でどうなさるの?かくなる上は、こちらから攻めるのみですわっ!」
「えっ、えええっ……」
「閨で、女子の方から迫られて、手を出さぬ殿方がいるものですかっ…」
(魔王だなんて言われてるから、どんなに恐ろしい男かと思っていたのに…あんなに素敵な方だなんて思ってもみなかった。
っ…あんなに美しいお顔で、あんなに男らしい身体……)
今朝方触れた、信長の逞しく筋肉質な身体を思い出してしまい、綾姫の胸の鼓動は途端にうるさく騒ぎ始める。
殿方の裸を見たのも初めてなら、触れたのも初めて。
あんな風に男らしく腕の中に抱き込まれて、間近で信長の端正な顔を見てしまい、一瞬で好きになってしまった。
正装に着替えた信長は、さながら物語に出てくる憧れの『源氏の君』のようで、これまでに会った、どの公達よりも素敵だった。
父からは、この滞在中に何としても信長のお手つきになるようにと強く言われて来たが、今はもう、その使命感よりも、ただ女として惹かれる気持ちでいっぱいだったのだ。
(九条家の姫である私が武家の側室なんて…と内心不満だったけど、あの御方になら……)
信長が去っていった廊下の先を、綾姫は熱の籠った目でいつまでも見つめていた。