第82章 誘惑
「はぁ……」
今日一日で何度目か分からぬ溜め息を吐きながら、信長は宿所である妙覚寺への帰路に着いていた。
「お疲れ様でした、御館様。いやはや、予想以上に遅くなってしまいましたな」
光秀が隣に馬を寄せながら声を掛けると、信長の表情が、これ以上ないほどに不機嫌なものに変わる。
帝への拝謁は予定通り、滞りなく済んだ……そこまではよかった。
その後、退出しようとしたところで次々と公家衆に捕まり、世間話に始まり陳情を受けたり、あれやこれやと話しかけられている内にすっかり遅くなってしまった。
おまけに、例の二人の姫の父親には、丁重にお帰り頂くよう申し上げたにも関わらず、うやむやに断られてしまい…それが余計に信長の苛立ちを増幅させていた。
(なにが『奥方様が御懐妊中では、何かとご不便でいらっしゃるでしょう?』だ。俺を見くびりおって…)
大事な娘を男の閨に送り込むなど…同じ娘の親として考えられん。
俺は、結華を嫁に出すことすら想像したくもないというのに……
「………御館様?」
どんどん表情が険しくなっていく俺を、光秀が気遣わしげに窺っていた。
今日は朝から苛々しどおしで、そろそろ俺の我慢も限界なのだった。
こんな時、朱里が傍にいてくれれば安らげるのに…と、詮ないことを考えてしまう。
京へ一緒に連れて来られたなら、どんなによかったか…
体調を崩していないか、また不安に駆られていないか、とその身を案じて堪らない心地になる。
「光秀、御所におる間、朱里からの知らせはなかったか?」
「はっ、ございませんっ…何か、特別、知らせをお待ちですか?」
「いや、便りがなければそれでよい。変わりないのであろう。
さて…こちらは、どうしたものか……」
眼前に妙覚寺の門前が見えてくるにつれ、今朝会ったばかりの二人の姫の顔がチラつき、信長の口からは我知らず悩ましげな吐息が溢れるのだった。