第82章 誘惑
「きゃっ……やっ……」
男の裸を見るのも初めてなのだろう。
小さく悲鳴を上げて、手に持っていた京扇で慌てて顔を隠す。
後ろを見ると、もう一人の姫の方も、唖然とした顔で目を見開いて驚いている。
(これしきのことでこの反応とは、初心なものよ。これで俺の閨へ侍ろうというのだから…聞いて呆れるわ)
「どうなされた?お手伝い頂けるのであろう?」
口の端に意地悪な笑みを浮かべながら、わざとらしく腰を前へ突き出して、ずいっと距離を詰めてやる。
「ひっ…やっ……」
慌てて後ろへ下がりかけた綾姫だったが、初めて見る男の身体に動揺し過ぎたせいなのか、絡れた足に緋袴の裾が絡まり体勢を崩してしまう。
「っ…きゃあっ!」
「おっと……」
倒れかけた綾姫の手を咄嗟に掴むと、無意識のうちに腕の中に抱き止めていた。
見た目以上に華奢な女の身体は、軽く手を引いただけで自身の裸の胸元にすっぽりと収まってしまう。
「あっ……信長さ、ま…?」
「っ……(しまった…思わず抱き止めてしまった…)」
腕の中でとろんっと蕩けるような目で見つめてくる女の姿を見て、これは些かまずいと思い、慌てて身体を離したが、もはや後の祭り……
先程まで気丈な光りを放っていた綾姫の目は、熱に浮かされたように艶っぽく潤んでいる。
「っ…手伝いはもうよい。これより御所へ参るゆえ、其方らの父君には俺から断りを入れておく。俺が戻るまでに、屋敷へ帰られよ」
突き放すように背を向けると、小姓に手伝わせて、さっさと着替え始める。
二人の姫は、おろおろとその場で戸惑った様子を見せながらも、下がろうとはしなかった。
背中に突き刺さる、熱っぽい視線に気付かぬフリをしつつ、正装に身を包んだ信長は、一気に憂鬱になった気持ちを何とか奮い立たせて、この後、更に輪をかけて憂鬱になるであろう御所へと向かったのだった。