第82章 誘惑
次の日、信長は、帝へ拝謁するため、早朝より内裏へ参内する支度をしていた。
此度の上洛には、光秀一人を供に連れて来ており、いつもなら甲斐甲斐しく信長の身の回りの世話を焼く秀吉は、大坂で留守居をしている。
小姓達に手伝わせて、参内のための正装へ着替えようとしていたところ、何やら部屋の外が騒がしい。
『お待ち下さいませっ!勝手に参られては困りますっ…』
『信長様の許可なく、お目通りは出来ませぬっ…あっ…お待ちを…』
静やかな衣擦れの音と、廊下をバタバタと歩く音、家臣たちの焦った声
これは………と思った瞬間、スーッと音もなく襖が開いたかと思うと、入り口に二人の女が両手をつかえて平伏していた。
煌びやかな紋様の五衣小袿姿の女人は、公家の姫らしい嫋やかな雰囲気を帯びている。
たが、前触れもなくいきなり押しかけるあたり、なかなか強引な女子たちなのかもしれないが。
はぁ…と、一つ大きな溜め息を吐くと信長は重い口を開く。
「面を上げられよ。三条家の雪姫に九条家の綾姫…だったか?…わざわざお越し頂いたところ申し訳ないが、人手は足りておる。姫君方のお手を煩わせるまでもない…早々にそれぞれのお屋敷へお帰り下され」
パッと弾かれたように顔を上げた一人の姫は、整った美しい顔に、にっこりと微笑みを浮かべる。
美しいが、勝気そうな目をしている。
「信長様、初めてお目にかかります。綾、と申しまする。わたくし達、父上より信長様の身の回りのお世話を致すように命じられてここに来ておりますの。簡単に帰る訳には参りませんのよ。
……これから御所へ参られますのね…お着替え、お手伝い致します」
すっ、と優雅に立ち上がると、着物の裾を引き、静々と傍に寄ってくる。
若いが堂々として物怖しない振る舞いに興味を惹かれるが、袿を押さえる小さな手が微かに震えているのを、信長の鋭い目は見逃さなかった。
(所詮は公家の箱入り娘か…気丈に振る舞ってはいるが、男も知らぬのだろう。くくっ…少し揶揄ってやれば尻尾を巻いて逃げ帰るだろう)
「手伝いなどいらぬが……まぁ、せっかく来られたのだ、お言葉に甘えるとしようか…」
言うや否や、しゅるりと帯を解き、着ていた着物を一気に床に落とすと、下帯一つの格好で、目の前に仁王立ちしてやった。