第82章 誘惑
京へ着き、此度の上洛の宿所である妙覚寺へ入った信長は、休む間もなく、精力的に動いていた。
まずは、京に常駐させている織田家の代官を呼び出し、塀の修繕工事の進捗度合いを報告させる。
俺が上洛すると聞いて慌てたのだろうか、予想以上に進んでおり、これならば京への滞在中に問題なく完成しそうな勢いであった。
(まったく…俺が上洛せずとも事足りように…)
「御館様、公家衆より、ご面会を願う書状が届いております」
光秀が、両手に抱えきれぬほどの数の書状を抱えて部屋へと入ってくるのを見て、毎度のことながらウンザリする気持ちが隠せない。
上洛するたびに、ご機嫌伺いと称して押しかけてくる公家どもの相手は、正直なところ、面倒この上ない。
形ばかりの挨拶に、金の無心、お上品な顔の下に隠された卑しい野心
本音で語れぬ公家との付き合いは、真に性に合わん。
「光秀、それは貴様が適当にあしらっておけ」
「はっ!くくっ…皆様、どうしても御館様にお会いしたいようですな。実は……此度は、ちと困ったことが……」
珍しく光秀が言い淀む。
「………何だ?」
「これもまた、御館様へのご機嫌取りのつもりなのでしょうが……此度はそのぅ、公家衆がこの妙覚寺へ娘御を送り込んできておりまして…」
「……………は?」
「三条家の雪姫様、九条家の綾姫様…ともに寺の離れに既に入られておりまして…京滞在中の御館様のお世話を致したい、と願い出ておられます」
「はぁ!?どういうつもりだ?公家の姫を世話係に差し出すなど…そんな馬鹿げた話、聞いたこともないぞ」
「あわよくば、御館様のお手が付いて側室に、との算段でしょう。
ご寵愛深い御正室が懐妊中の今が好機と…浅ましい考えですな」
ニヤリと笑む光秀に、信長は苦々しく眉間に皺を寄せてみせる。
「俺は、そんな節操のない男ではないわ」
「ごもっともで……では、どうなさいますか?」
「捨ておけ。世話係は足りておる。女はいらん」
「ははっ!」
相変わらずニヤニヤと笑いながら退室していく光秀に、チッと軽く舌打ちしながら、『京とは、面倒なことばかり起きるところだ』と呆れるばかりの信長だった。