第81章 雨後
今日中に城へ戻れぬとは…想定外だが仕方があるまい。
また朱里を不安にさせてしまうかと思うと、信長の心は重かった。
城を出る際、いつものように城門の前まで出て、見送ってくれた。
身重の身なのだから無理せず城内での見送りでよいと言ったが、頑固なあやつは聞かなかった。
心配そうに俺を見つめる目が、頭から離れない。
ここは戦場ではなく、危険なこともない。
心配することなど、何もないはずなのだ。
何がそんなにあやつを不安にさせているのか……正直分からん。
(帰ったら、とことん甘やかしてやろうと思っていたのだが……それもおあずけだな)
ふぅっと、溜めていたものを吐き出すように一つ溜め息を吐くと、信長は迷いを断ち切るように歩き出した。
陽が西の空に傾き始めたために、今日の作業を一旦中断することにした織田軍は、野営の準備を始めていた。
信長も兵たちと共に野営をするつもりだったのだが、村長の強い勧めもあり、今宵は秀吉と共に村長の家に泊まることになっていた。
「御館様、お疲れ様でした。明日は朝一番に崖崩れの方の復旧に取り掛かりますゆえ、今宵一晩、御辛抱下さりませ」
「……別に、辛抱というほどのことはないが…」
「あっ、いや、その…朱里が…出立の際、随分と寂しそうにしておりましたので…今宵帰城できぬのは、ご心配ではないかと……」
慌ててしどろもどろになる秀吉を見て、信長は口角を緩める。
(さすがは世話焼きの秀吉だな、よく見ているものだ)
「戦場へ行くわけでもないのに、あやつがあのような不安げな顔をするとはな」
「女子は腹に子が宿ると、普段とは違う心持ちになりがちだと聞いたことがございます。些細なことでも不安になったり、寂しさを感じたり…と。朱里が今、そういう状態なのかどうかは分かりませんが……」
「そういうものか?はぁ…やはり……俺にはよく分からん」
眉間に皺を寄せ、悩ましげな吐息を溢す主君の様子を、秀吉は微笑ましい気持ちで見守っていた。
昼間の、堂々とした揺らぎのない天下人としてのお姿は、文句なしに崇拝に値するが、今、目の前でこうして、愛しい女のことで心を悩ます御館様のお姿もまた、秀吉にとっては、この上なく尊いものに思えてならなかったのだ。