第80章 魔王と虎
「っ…君は身重の身だったのか…これは…俺としたことが、冗談が過ぎたな。君があんまり麗しいものだから、つい触れたくなってしまうんだ…許してくれ」
「っ…いえ…」
(うぅ…どこまでも甘いな、信玄様…)
信玄様がどこまで本気なのか分からないけれど、何を言われても私が想うのは信長様だけだ。
信長様が私の知らない顔をお持ちでもいい。
何があっても信じているから…あの方を……
「………朱里、待たせたな」
「信長様っ…」
軽やかな足取りで席に戻られた信長様は、私の様子をチラリと流し見ると、鋭い目つきでキッと信玄様を睨みつけた。
「…………触れていないだろうな?」
「くくっ…お前がこんなにも女に執着する男だとは思わなかったぞ。帰ったら謙信にも教えてやろう…あいつは、さぞや嘆くだろうさ」
「チッ、吐かせっ、お前が油断ならん男だからだ…まったく…」
「の、信長様っ…落ち着いて下さい…あっ、ほら、お好きな幸若舞の演舞が始まりますよ、一緒に見ましょう!」
「あ?あぁ…」
ふぅっ…と軽く息を吐いて舞台の方へ視線を戻した信長様は、僅かだが、その表情を緩める。
幸若舞は、能楽と並んで武将達に人気のある芸能で、源平の戦いなど、武士たちの華やかにして哀しい物語を主題にしたものが多かった。
信長様は能楽にもお詳しかったが、この幸若舞は特にお好きなようだった。
今も舞台の方を見ながら、小さく謡を口ずさんでおられる。
その重みのある低音の声が、直接耳に響いてきて心地良かった。
しばらくそうして舞台を見ていた信長様だったが、徐にその場に立ち上がり、持っていた京扇をパッと勢いよく開かれた。
『思へばこの世は常の住み家にあらず
草葉に置く白露、水に宿る月よりなほあやし
金谷に花を詠じ、榮花は先立つて無常の風に誘はるる
南楼の月を弄ぶ輩も 月に先立つて有為の雲にかくれり
人間五十年、化天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり
一度生を享け、滅せぬもののあるべきか
これを菩提の種と思ひ定めざらんは、口惜しかりき次第ぞ』
パチパチと篝火の爆ぜる音が響くなか、朗々と謡い上げる重厚な声と流れるような演舞に、辺りは静まり返り、皆の視線が一斉に信長様に集まっていた。
(っ…なんて幻想的なんだろう…)