第80章 魔王と虎
宴の盛り上がりも最高潮に達してきた頃、後ろに控えていた秀吉さんが信長様に声をかけ、二人は何事か話をしているようだった。
が、やがて………
「…朱里、少し外す。大丈夫か?」
肩に手をやり、気遣うように顔を覗き込まれる。
「あ、はい」
「…信玄、俺が居らぬ間に、朱里に手を出すなよ?万が一何かあったら……大坂から生きては帰さん」
「はいはい…男の嫉妬はみっともないぞー。何の用事か知らんが、さっさと行ってこい」
「…チッ…」
眉間に皺を寄せたまま席を立つ信長様を、黙って見送りながらも、何かあったのだろうかと少し心配だった。
「………信長のことが心配かい?」
「えっ…あっ……」
掛けられた声にハッとして、俯いていた顔を上げると、口元に優しい笑みを浮かべてふわりと微笑む信玄様の姿があった。
その笑顔は大人の余裕に溢れていて、思わずドキドキと胸が騒いでしまうほどに素敵だった。
「君は本当にあの男のことが好きなんだな。ずっと奴を見てるね…妬けるぐらい熱っぽい目で」
「あっ…私は…信長様の妻ですから…」
「うん…あの冷酷非情な魔王が、自ら望んで妻に迎え、城の奥深くに大事に隠してるっていう姫を見てみたくなってね。祝いに託けて来てみたんだが……想像以上の溺愛ぶりだな」
「っ…そんな…でも、信長様は冷たい人なんかじゃ…ありません」
「ふっ…君は戦場での信長を知らないんじゃないのか?君は北条家のお姫様だったんだろ?お城で大事に育てられて魔王に囚われた。あいつが君に見せるのは甘い男の顔だけだ。
寺を焼き、何千何万の命を奪い…血に塗れたあいつを見たことはないだろう?」
「っ…何が、仰りたいのですか?」
「男には、愛しい女にも見せない顔があるってことだよ。
君はあいつ以外の男を知らないんだろう?他の男を……知ってみたいとは思わないか?」
「っ……」
スッと伸びてきた手が、私の頬に触れる。
大きくて暖かな手は、顔の輪郭をなぞるように優しく滑っていき、指先が擽るように唇に触れた。
(っ…ダメっ…流されちゃ…)
渾身の力で、信玄様の手をグイッと押し返し、
「っ…やめて下さいっ!私は…信長様を信じています。信長様は、いつだって私を守って下さる。私を、娘を……このお腹の子を、大事だと言って下さるのです。
他の殿方など…知りたくはありません」