第80章 魔王と虎
今宵最初の演目は『羽衣』
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ある日、漁師の男は海から戻り浜へ上がると、浜辺の松の枝に、この世のものとも思えぬほどに美しい衣が掛かっているのを見つける。
見たこともない美しさに目を奪われた男は、その衣を持ち帰ろうとするが、そこへ天女が現れて『それは私のものだから返して欲しい。その衣は天人の羽衣で、地上の人間に与えられるものではない』と言う。
男は天女の願いを断って強引に持ち帰ろうとするが、天女は『その羽衣がないと私は天に帰れない』と嘆き悲しむのだ。
天女の悲しむ姿を気の毒に思った男は、『羽衣を返す代わりに、世にも名高い天人の舞楽を見せて欲しい』と願う。
天女は『羽衣がないと舞楽は舞えません。先に羽衣を返してくれたら舞いましょう』と申し出るが、男は天女の言葉を疑う。
『羽衣を返してしまったら、そのまま天に昇ってしまうのではないか』と………
そんな男に天女は言う。
『天に住まう者は嘘など吐かない。嘘を吐き、人を欺すのは地上に住まう者である』と。
それを聞いた男は自分の疑り深さを恥じて、素直に天女に羽衣を返した。
天女は羽衣を纏い、雅な舞楽を存分に舞ってみせると、霞のように天高く舞い上がり、そのまま天の国へと帰って行ったのだという。
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(昨日の夜、信長様と話した『輝夜姫』のお話とちょっと似てるな…美しくて……ちょっと切ない。『羽衣』が最初の演目に選ばれたのは偶然かしら…)
「へぇ…天女の羽衣とは…なかなか粋な演出じゃないか」
信玄様は、隣に座する信長様を気にすることなく、私の方にチラッと艶めかしい流し目を送ってくる。
私はそれを曖昧に受け流しつつ、空になった信長様の盃へ御酒をお注ぎする。
信長様は、舞台へ熱い視線を送りながら満足そうに口の端を緩めておられた。
(っ…よかった…愉んでおられるみたい)
荘厳な能楽の後には、幾分くだけた調子の舞や謡も次々と披露され、場が盛り上がるにつれて皆の酒量も増えていき、賑やかな酒宴へと移っていった。
信長様と信玄様も、互いに御酒を注ぎ合ったりしていて…心配していたような険悪な感じではなく、私は秘かに安堵していたのだった。