第80章 魔王と虎
陽が落ちて辺りが薄闇に染まる頃、大坂城の広大な中庭には、パチパチと篝火の火の粉が爆ぜる音が響いていた。
中庭のちょうど真ん中辺りに能舞台が設られていて、その周りにはいくつもの篝火が焚かれている。
近くにある藤棚が、今を盛りと見事な花を咲かせていて、より一層幻想的な雰囲気を醸し出していた。
三間(5.5m)四方の能舞台は檜板が張られており、舞台の前方には階(きざはし)が作られ、橋掛かりや五色の揚幕なども設置された本格的な作りになっていた。
舞台の周りには、見所と呼ばれる一般の観客席が設えられているが、それとは別に、舞台の正面には貴人用の観覧席として豪華な御座所が設けられていた。
晴れ着を着た結華の手を引いて御座所に入ると、信長様は既に席に着かれていて…隣に座る信玄様と御酒を酌み交わしておられた。
(あ、あれ?二人とも意外と普通に……)
信長様と信玄様、二人の自然な様子に少し戸惑いながらも、歩を進める。
「信長様…お待たせ致しました」
「……来たか」
打掛の裾を引きながらお傍に寄ると、見るだけで蕩けてしまうような柔らかな笑みを私に向けてくれる。
「やぁ、朱里、今宵はまた一段と美しいな…しかも、小さな天女までいらっしゃったとはね…」
「信玄様っ…」
相変わらず甘々な信玄様の言葉に、ヒヤヒヤして信長様の表情を窺うと、案の定、苦虫を噛み潰したような苦々しい顔を信玄様に向けておられた。
(いけないっ…信長様がイライラしちゃってる…)
「の、信長様っ…お酒、お注ぎしますね…」
「あ?ああ…」
(信長様の機嫌が悪くならないように、私が何とかしなくちゃ…)
昼間、光秀さんに言われたことを間に受けたわけでないけれど、信長様がお誕生日に嫌な思いをしないようにしたかったのだ。
私が内心焦っている内に、秀吉さんによって祝宴の開始が宣言され、舞台では能の演目が始まっていた。
ゆらゆらと篝火の火が揺らめく幽玄な舞台で、笛や鼓の清麗な音と重厚な謡(うたい)の融合が、幻想的な雰囲気を創り出している。
美しい衣装と神秘的な能面を身に付けた演者が舞台に現れると、その神々しい雰囲気に、観る側もしんっと静まり返る。