第80章 魔王と虎
『甲斐の虎』武田信玄
もっと厳しい顔の、獰猛で恐ろしい武将だと思っていたのに……目の前のこの人は、恥ずかしいぐらいに甘い口説き文句が、立て板に水の如く平然と口から出てくるような、大人の男性だった。
想像を裏切られて戸惑う私を背に隠し、信長様は身に纏う気を、今にも腰の刀を抜き放ちそうなほどに張り詰めさせている。
(っ…どうしよう…このまま斬り合いになっちゃったら…)
焦る私の気持ちを見透かしたように、信玄様は余裕たっぷりに話しかけてくる。
「麗しい姫の前で斬り合いなんて、無粋な真似はナシだ。一緒に甘味でも楽しもうじゃないか…姫の一推しの甘味を教えて頂けるかな?」
「えっ、あ、は、はい…」
「朱里っ!」
「ほぅ…姫の名前は朱里というのか…麗しい姫君に似合いの名だ。益々、お前には勿体ない女人だな、信長」
「信玄っ、貴様、無事に大坂を出たければ、それぐらいにしておけ。まったく…相変わらず、女と見れば見境のない奴め」
苦々しい顔で冷ややかな視線を向ける信長様に対して、信玄様はどこ吹く風といった調子で、信長様の冷たい視線をも全く気にしていないようだ。
「……帰るぞ、朱里っ!」
「は、はい…信長様…」
ぐいっと手を引かれて引き摺るように歩かされる私に、信玄様はニッコリと微笑みながら、軽やかに手を振った。
「またな〜、朱里」
「の、信長様っ…待って…もう少しゆっくり…」
「…………………」
「っ…信長様っ…転んじゃう…から」
はぁはぁと吐く息が荒くなりながら訴える私に気付いた信長様は、ようやく足を止めてくれた。
「っ……すまんっ……大事ないか?」
信長様の視線が、私のお腹の辺りに注がれているのを感じて、私もまた、そっと触れてみる。
「んっ…大丈夫です。でも……驚きました。まさか城下で『甲斐の虎』に会うなんて…」
「チッ、信玄め、ふざけたことばかり言いおって…」
「ええ、本当に…私に逢う為に来ただなんて…冗談ばっかり…」
「っ…(いや、それはあながち冗談とも言えんのだが……)」
「信長様?」
「いや、何でもない…」
(まったく…信玄め、何の目的で大坂まで来たのか…後で光秀に探らせるか…)
せっかくの朱里との逢瀬に思わぬ邪魔が入り、信長は苛々する気持ちを抱えたまま、城への帰路に着いたのだった。