第80章 魔王と虎
「『俺』だ……その手を離せ、信玄。今すぐに、だ」
周りが一瞬で凍りつくような、氷のように冷たい声が鋭く浴びせられる。
「っ…信長様っ!」
ハッと顔を上げると、そこには、冷たい声とは裏腹に、燃えるような怒りの炎を全身に纏ったかのような信長様の姿があった。
目線だけで焼き殺せそうなぐらいの鋭さで、男性を睨みつけている。
信長様の激しい怒りを肌で感じてしまい動揺する私とは反対に、男性は信長様の鋭い視線を受けても平然と口元に笑みを浮かべている。
「よぅ、信長、久しぶりだな。美しい天女を一人で置いていくなんて、油断し過ぎじゃないのか?」
「吐かせ、この女好きがっ…全く、油断も隙もないとは、このことだな。わざわざ大坂まで…何しに来た?」
「決まってるだろ?天女に逢いに、だ」
「…………は?」
「この前の視察の旅では逢えなかったからなー。てっきり、甲斐まで連れて来るとばかり思ってたのに……俺は、魔王の秘蔵の天女に逢えるのを楽しみにしてたんだぞ?」
チラリと私を流し見る瞳は、蕩けるように甘い。
信長様はさり気なく私を背に隠すようにして、その甘い視線を遮った。
「貴様のような女たらしに、逢わせるはずがなかろうが…まったく…」
「へぇ、噂は本当みたいだな。第六天魔王を夢中にさせた天女か…俺も、是非ともお相手願いたいな」
スッと私に向かって伸ばされる男性の手を、信長様が間髪入れず払おうとすると、男性は一瞬早く手を引いていた。
「おっと…危ない危ない。戦場では鬼のように冷酷なお前の、そんな慌てた姿、初めて見るな」
「くっ……」
そのまま無言で睨み合う二人の傍で、私はどうしていいか分からずに立ち尽くしていた。
二人の間には、一触即発の緊迫した空気が漂っている。
(ど、どうしよう…一体、何が起こってるの?
この人は……信長様は『信玄』って言ってた…甲斐への視察って…
武田信玄?『甲斐の虎』?……この人が!?)
「あ、あの…信長様?この方は……」
信長様の着物の袖をきゅっと握り、小さな声で恐る恐る尋ねる私を遮るように、その人は、堂々とした名乗りを上げたのだった。
「初めまして、麗しの天女様。俺は甲斐の武田信玄だ。君にはもっと早く逢いたかったなー」
(甲斐の虎って…こんな人だったんだ……)
それは色々な意味で、衝撃的な出逢いだった。