第79章 新命
朱里の懐妊が分かり、城内は久しぶりの慶事に湧いていた。
産婆の見立てでは、出産予定日は秋頃ということだったが、いつの間にやら城下にも『奥方様御懐妊』の噂が広まってしまい、大坂城下は既にお祝い一色だった。
そうなるとやはり皆の噂話の中心は、子の性別のこと。
まだ腹の中で動き出しもしていない子のことを、若君だ、姫だ、とあっちでもこっちでも話題になっている。
皆がそれだけ、此度の懐妊を喜んでくれているのだと思えば有り難くもあるが……反面、皆の期待が朱里の負担にならねばよいが、と信長は秘かに案じていたのだった。
「朱里、具合はどうだ?」
朝の軍議が終わり、本来ならそのまま執務室へ向かうところを、秀吉を上手く撒いた信長は、秘かに天主に戻っていた。
悪阻のせいで起きぬけから具合が悪かった朱里は、朝、起きた時と同じ姿のままで寝台の上に横になっていた。
天主に運ばせた朝餉にも手をつけなかったようで、すっかり冷めてしまった膳がそのまま置かれている。
「朝餉も食えんか?何か少しでも食べられるものがあればよいのだがな……」
「っ…ごめんなさい、心配かけて…」
くったりと力なく横たわる朱里の傍に腰を下ろして、その髪をそっと撫でる。
指通りの良い艶やかな黒髪とは反対に、もともと色白だった顔は、更に青白くやつれて見える。
「結華を身籠っておった時も酷かったが、此度の悪阻もまた、辛そうだな…」
「はい……悪阻は時が経てば治まるとは分かっていても、やっぱり辛いです。食べても食べなくても気持ち悪くて……」
「そうか………だが、昨夜も食べてないだろう?何か口に入れねば………金平糖はどうだ?寝ながらでも舐めておれば…」
言いながら、思い出したように懐から金平糖の小瓶を取り出す信長を見て、朱里はくすくすと笑い声を上げる。
青白く精気のなかった顔が愉しそうに綻ぶ様を、信長は眩しそうに見つめる。
「信長様ったら…それ、どうなさったのですか?」
キラキラと七色に輝く金平糖を眩しいものでも見るように見遣りながら、朱里は愉しげに信長に問いかける。
信長の答えは分かっているのだろう。
「ふふっ…これか?これは……厨からちょっと拝借したまでだ」
軍議の後、秀吉を撒くついでに、厨に忍び込んだ。
彼奴の隠し場所などお見通しだ。
この城に俺の自由にならぬところなど、あるはずがない。