第79章 新命
家康が診察を始めてから、ひどく長い時間が経ったように感じたが、実際にはさほどの時間は経っていなかったのかもしれない。
やがて、入口の襖が開いて、家康が神妙な顔で出てくる。
「家康っ…」
「っ…信長様っ…」
(なんて顔なさってるんだ…この人のこんな不安そうな顔、俺は見たことない。いつも自信たっぷりのこの人をこんな風にさせるなんて……朱里はやっぱり信長様にとって特別なんだな)
「家康、朱里の具合はどうだ?っ…よもや、重い病ではなかろうな?」
ギロリと眼光鋭く睨みながら、信長は急くように家康を問い詰める。
今すぐ答えねば切る、とでも言いたげな鋭さで迫る信長に、家康もまた一歩も引かず、信長の深紅の瞳をくっと見据える。
「信長様………おめでとうございます」
「…………は?」
祝いの言葉とともに深く頭を垂れた家康の姿に、信長は一瞬、思考が定まらず、沈黙が二人の間に訪れる。
「家康っ、貴様、ふざけておるのか…めでたい、などと……朱里は倒れたのだぞ?一体、どこが悪いのだ?早く答えよっ!」
「朱里が倒れたのは、病ではありません。
信長様、奥方様は…御子を身籠っておられます。御懐妊、おめでとうございます」
「…………懐妊、だと?子が…出来たと?っ…まことか?」
「ええ、少し前から吐き気が続いていたみたいです。あの子、心配かけないように、ってずっと黙って、無理してたみたいで……あっ、信長様??」
話を最後まで聞くことなく、信長は家康を押しのけるようにして室内へと足を踏み入れていた。
「朱里っ…」
褥の傍に駆け寄ると……朱里は両手で顔を覆って泣いていた。
声は押し殺しながらも、涙は止めどなく溢れているようで、顔を覆う手は零れる涙でしとどに濡れていた。
「っ…うっ、くっ…うっ、ひっ、くっ…」
「………朱里、何故、泣く?」
「うっ、くっ…ひっ、ううぅー、信長さま…」
「身籠った、と聞いたぞ。子が出来たというのに…何故、泣いておる?」
「っ…だ、だって…信じられなくて…御子が…信長様の御子が、またここに宿るなんて…私っ…」
緩めた着物の上から腹を愛おしげに摩りながら、嬉しそうに見つめている。
そこはまだ少しの膨らみも見えないが、不思議なもので、昨日までとは全く違ったように思えるのだ。