第77章 別離
「……朱里、俺だ。入るぞ」
船室の戸をコツコツと叩いて、室内に声を掛ける。
(西洋では戸はいきなり開けず、こんな風に叩いて合図をするらしい)
中に入ると、朱里は寝台に力なく横たわっていたが、俺の姿を見て慌てて身を起こす。
その動きもどことなく気怠げで、何となく顔色も悪いようだ。
「信長様っ!」
「眠っておったのか?よい、具合が悪いのなら、そのまま横になっておれ」
「い、いえ、大丈夫です…少し気分が悪くて…船酔いかもしれません…」
「……珍しいな、貴様が船酔いなど…」
(海辺育ちで船にも慣れたものの朱里が船酔いなど……やはり相当、精神的に参っているのか……)
隣に腰掛け、肩を抱き寄せると、華奢な身体が益々小さくなったように感じ、チクリと胸の奥が痛んだ。
しばらくの間、信長の胸に黙って身を預けていた朱里は、やがてゆっくりと身体を離した。
きちんと背を伸ばし、真っ直ぐに信長の目を見据える。
「っ…朱里?」
「信長様。此度は…ありがとうございました。小田原まで私を連れてきて下さり、母の看病もさせて下さった。
嫁いだ身でありながら、里帰りを許して頂けるなど…恐れ多いことでした。
最期の時も…一緒に看取って頂いて…何とお礼を申し上げてよいか……本当にありがとうございました」
「つっ…………」
深々と頭を下げる姿に、言葉に詰まり、何と声をかけてよいのか分からなかった。
「朱里っ…顔を上げよ。礼など無用だ」
「っ…でも……」
ゆっくりと上げた顔は苦しそうに歪められていたが、そこにはやはり、涙はなかった。
何かに耐えるように固く唇を引き結び、瞳は迷い揺らいでいた。
「朱里っ…」
「っ…あっ……!」
その頼りなげな様子に、堪らず腕の中へ抱き寄せていた。
「もう…これ以上我慢を致すな。悲しい時には泣けばよい。思いきり涙を流して、辛いことも悲しいことも、心の中のもの全て、洗い流してしまえばよい。
我慢などして何になる?俺の前でまで、心を偽る必要はないっ」
「信長様…」
「一人で抱え込まずともよい。貴様の辛さも悲しみも、俺に分け与えよ。貴様は一人ではない。何があろうと俺が傍におる。
貴様の身も心も、俺が必ず守る」
「っ…うっ…信長様っ…私っ…」