第77章 別離
「……り…朱里っ…」
「………ぇっ、ぁっ……」
何度目の呼びかけであったのだろうか…名を呼ぶ声にハッとして、落ちかけていた意識を浮上させると、心配そうに私を見つめる信長様と目が合った。
「……っ…ごめんなさい」
「いや……大丈夫か?」
私の膝の上に頭を預けたまま下から見上げてくる、その深い紅色の瞳は、全てを見透かすかのように鋭かった。
天主の廻縁に出て、春の夜風に当たりながら御酒を愉しまれた信長様は、いつものように私に膝枕を命じられた。
この季節特有のふんわりとした柔らかな空気と、程良く回った酒が心地良いのか、信長様は目を閉じてゆったりと横になっておられた。
そんな無防備な様子にキュンっと胸をときめかせて、その柔らかな黒髪を撫でていたのだが……いつの間にやら、ぼんやりとしてしまっていたようだ。
「……何かあったか?」
下から手を伸ばし、壊れものに触れるような手つきで私の頬を撫でながら、優しく尋ねてくれる。
「っ…ごめんなさい……母のことを、考えていました。考えても詮無いことだと、分かっているのに……気持ちが上手く整理できなくて…」
「っ…朱里…」
「……いつかはこんな日が来ると、分かっていたはずなのに……。
小田原から…文が届くのが怖いのです。っ…母の、死の知らせであったら、どうしよう……そう思うと怖くて…怖くて。
それなのに、また…文を書いてしまうのです」
抑えていた感情が堰を切ったかのように、次々と言葉となって吐き出されていく。
誰にも見せられない弱い部分も、信長様になら全て曝け出せた。
信長様は身体を起こし、私と向かい合うと……ぐいっと肩を抱き寄せて、その逞しい腕の中へ私を閉じ込めた。
「っ!…………」
「………朱里、母上に…逢いたいか?」
「っ……逢い、たい…逢いたいっ…あぁ…母上っ…うっ、あぁ…」
信長様の胸に顔を埋め、胸の奥から湧き上がってくる寂寥の思いのまま感情をぶつける。
涙が溢れて抑えられなかった。
信長様は、それ以上は何も聞かず、何も言わず……その夜、泣き続ける私を、一晩中黙って抱き締めていてくれた。