第77章 別離
「………姫様、また文を書いてらっしゃるのですか?」
遠慮がちに問う千代の声に、文机に向かっていた私は俯けていた顔を上げる。
千代は気遣わしげな表情で私の手元を見ていた。
「ん…遠く離れた場所にいる私ができるのは、文を書くことぐらいだから……」
「姫様っ……」
そっと、筆を置いて、目を閉じると、目蓋の裏に懐かしい人の優しい笑顔を思い浮かべる。
私を慈しみ、いつも愛情たっぷりに見守ってくれていた………
(っ…母上っ…)
最後に母に逢ったのはいつだろう。
信長様と祝言を挙げる前…織田と北条が一触即発の戦になったあの時が最後………もう何年も逢っていない。
他家に輿入れするとは、そういうこと。
二度と実家に戻ることはない。父母にも逢えない。
信長様の妻となり、信長様のお傍が、織田家が私の居場所になった。
北条の家に戻ることなど…考えたこともなかった。
それなのに………
一目でいい…母に逢いたいと、今はただそれだけを思う。
母の体調が思わしくない、という知らせが北条家から届いたのは、信長様が西国の一揆制圧から戻られて、しばらく経った頃だった。
元々身体の弱かった母ではあるが、近年、心の臓が更に弱くなり、床につくことも多くなっていたらしい。
北条家は異母弟が家督を継ぎ、父と母は今は隠居の身であるが、これまでどおり小田原の城で暮らしている。
私は、母と折に触れ、文のやり取りを続けていたが、年々弱々しくなる母の筆致に、秘かに心配を募らせていたのだった。
そんな時届いた、よくない知らせ……
母はいよいよ床から起き上がることもままならなくなり……その命の灯火は明日をも知れぬ、と……
「っ……」
逢えぬなら、せめて文を読み聞かせて欲しい、と何度も文を書いて送っている。
他愛ない内容の文であっても、母を元気づける助けになれば…そう願って。
許されるならば、今すぐにでも母上のお傍に行きたい。
願わくば、最期の時を一緒に過ごしたい。
けれど……それは……今の私には叶わぬ願いだ。