第76章 優しい嘘
「信長様っ!!」
覚束ない足取りのまま、ようやく階段を登りきり天主に着いた私は、パンッと勢いよく入り口の襖を引き開けた。
「……………朱里?」
「………………えっ?……あれ?」
階段を登ってきて上がった息を、はぁはぁと吐きながら必死の思いで襖を開け放った私が見たものは…………
いつもどおりに、文机の前で文を書いておられる信長様の姿だった。
背筋を伸ばした美しい姿勢のまま筆を持つそのお姿は、ぱっと見たところ、どこにも怪我はなさそうに見えた。
「珍しいな、貴様がそんなに慌てている姿を見るのは…」
「ええっ…の、信長様、あのぅ、城下で刺客に襲われたって…」
「ん?」
どこまでも冷静な信長様の態度が、逆に私を落ち着かなくさせる。
おかしい…何かが食い違っているのだろうか?
「っ…お怪我を、なさったと聞いて、私っ…」
「怪我?あぁ…これのことか?」
さも大したことなさそうに呟いた信長様は、左手の袖を捲ると腕をヒラヒラと振ってみせた。
手首の少し上ぐらいに、真新しい白い包帯が巻いてある。
包帯の痛々しい見た目に反して、当の信長様は私の目の前で手首をくるりと回してみせ、事も無げな様子であった。
「刺客を取り押さえる際に、相手の刀の刃が少し掠っただけだ。往生際悪く暴れおったのでな。大した怪我ではない」
「で、でも…城内も『信長様が怪我をなさった』と騒ぎになってましたけど……」
「くっ…秀吉の奴め、また大仰に騒ぎおって…この包帯も、俺は要らんと言ったのに、彼奴が家康を呼びつけて無理矢理巻かせていったのだ。
大慌てで家康を呼んだゆえ、城内でそんな噂になったのであろう。
こんな傷、舐めればすぐ治るというに……」
「……………」
(いやいや、舐めればって、それはちょっと…でも、深い傷ではなさそうでよかった)
「はぁ…とにかくお元気そうで何よりでした」
安心したら一気に力が抜けたようで、私はその場にへなへなと座り込んでしまった。
そんな私を見て信長様は、くくっと口の中で小さく笑うと、私の身体を抱き上げて自身の膝の上に乗せた。
そうして、後ろからぎゅっと抱き締めると、耳元で柔らかく囁くのだ。
「俺を心配したか?」
「……はい」
「どんな風に?」
「っ…心の臓が止まるかと思いました…」
「このように髪を乱して……駆けてきたのか?」