第76章 優しい嘘
「信長様、失礼します…」
執務室に着き、襖の前で声をかけてから中に入ると、信長様は文机の前で文を認められているところだった。
秀吉さんも、隣で書簡の整理をしている。
私が入ってきたのに気付いた信長様は、書いていた文から顔を上げて、ふわりと柔らかな笑みを向けてくれる。
家臣達との話で、もやもやしていた気持ちが一気に晴れるようなその笑みに心を奪われる。
(優しい笑顔……信長様はこんなお顔もなさるんだ、ってことを家臣の皆にも、もっと知って欲しいんだけどな…)
追放という苛烈な仕置きに、明日は我が身と信長様を恐れる様子を見せていた家臣達のことを、ついつい思い浮かべてしまっていた。
「……朱里、どうかしたか?」
「っ…えっ?」
「何か思い詰めたような顔をしているな。気に病むことがあるのなら、包み隠さず俺に言え。貴様がそのような浮かない顔をしているのを放っておくわけにはいかん」
「信長様……」
慈愛に満ちた視線を向けられて、キュッと胸が締めつけられる。
「っ…あのっ、実は…佐久間殿と林殿の追放のこと、聞いてしまって……」
「っ……」
僅かながら信長様の目に驚きの色が浮かんだ。
「お二人はこれまで、織田家の為に力を尽くしてこられた御方ですよね?…それは、これからも変わらないはず…
信長様がお二人を追放なさったのには、何か深い理由があるのですか?」
私の言葉を黙って聞いていた信長様は、しばらく何事か思案しておられたが、やがて悩ましげに溜め息を吐かれた。
「貴様がどう聞き及んだかは知らんが、古参がいつまでも蔓延ったままでは、軍として成長はせん。古参を排し、若く力のある者を登用していくことは、将として当然の振る舞いだ。
それに、どんな理由があろうと、俺が追放した事実は、変わらん。それが全てだ」
向けられる真っ直ぐな瞳からは、偽りのない言葉だということが伝わってくる。
けれど、その言葉の裏に隠された信長様の真意が知りたい、とそう思ってしまう。
「っ…で、でも……」
「朱里っ、くどいぞ。貴様、いかに正室といえど、政に口出しすることは許さんっ!己の分を弁えよっ!」
一転して、厳しく冷たい口調で叱責され、予想外のことに言葉に詰まってしまう。