第73章 恋文
「お美しい朱里様、一度でいいのです…私と逢瀬をして頂けませんか?」
手を握ったまま、ぐいっと身体を寄せられて迫られる。
「っ…そんなことっ…私は信長様の妻です。夫以外の方と逢瀬などっ…するわけがないでしょう?」
「……朱里様。私の店は京では由緒ある大店で、内裏や公家衆からも懇意にして頂いているのですよ。私が一言申せば、京での信長様の評判を落とすことも簡単なことなのです…そんなことになっても宜しいので?」
「なっ…そんな……」
(何て卑怯な…でも…信長様が困るようなことは避けたい…っ…どうしたら…)
強引に握られた手を、今すぐに振り払ってしまいたい。
でもこの人を怒らせて、もし信長様の京でのお立場が悪くなったりしたら……
様々に揺れる心のまま、男の手を振り払えずにいると、奥の部屋から戻ってきたらしい千代と反物屋のご主人の話し声が聞こえてくる。
「………良い返事をお待ちしていますよ、朱里様」
男は唇が触れそうなほどに耳元近くで囁くと、何食わぬ顔でサッと離れていった。
「姫様…?」
千代は、男の姿と私の只ならぬ様子を見て、慌てて傍へやって来る。
「っ…大丈夫よ、千代。何も問題ないわ」
(言えない…千代にも心配掛けたくない)
「姫様、でも…あの、お顔の色が…」
「少し疲れてしまったみたい…反物は決まったし、髪飾りなどの装飾品はまた今度にして、今日はこれで帰りましょうか…せっかく用意して下さったのにごめんなさい」
心配そうにしてくれているご主人に断りを入れる。
「とんでもございません!またいつでもお越し下さい……信長様のお許しを頂ければ、私がお城へお持ちしてもいいですし…」
「ありがとう…」
帰る道すがら、心配した千代が色々と話しかけてくるのにも、動揺してまともに答えられぬまま、私は覚束ない足取りで城へと戻ったのだった。