第72章 淡雪の恋
広間を出た信長は、迷うことなく朱里の自室へと向かっていた。
廊下を進んでいると、先の方から愉しげな笑い声が聞こえてきて、思わず足を止める。
部屋の前まで来て、襖の隙間からそっと中を覗いてみると、碁盤を挟んで愉しそうに話をする結華と新九郎の姿があった。
時折、顔を近づけて碁盤の上の碁石を見遣る二人は、傍目から見ても仲睦まじげな様子だ。
その様子は仲の良い兄妹のようでもあり、淡い恋心を抱く小さな恋仲同士のようでもあった。
愛しい娘が急に遠くに感じられて、胸がざわざわと落ち着かない。
(っ……)
気が付けば、キリリと唇を噛んでいた。
「……あら、信長様?」
呼びかけられて、慌てて襖を開け放つと、中からの視線が一斉に自分に集まり、些か居心地が悪かった。
「父上っ!」
「信長様っ!」
部屋を盗み見るようにして様子を窺っていた自分には、小さな子供たちの無邪気な笑顔は眩し過ぎて、咄嗟に言葉が出てこない。
「…っ…囲碁をしておったのか?」
「はいっ!でも、負けてしまいました…結華姫はお強いですね」
「結華に囲碁を教えたのは俺だからな、当然だ。
結華、次は父と一局打つか?」
「え〜、やだ。新九郎さまともう一回したいから」
「ぐっ……」
「の、信長様、あちらでお茶でもいかがですか?軍議でお疲れでしょう?甘味もありますよ?」
信長のイラッとした雰囲気を敏感に感じ取った朱里は、慌てて間に入った。
子供たちを部屋に残したまま、庭に面した縁側に信長を導くと、急いで甘味とお茶の支度を始めようとする。
「……朱里、茶はいらん。膝を貸せ」
「えっ?あ、あの…今、ここで?」
チラリと子供たちの方を見ると、碁盤を囲んで真剣な表情をしているが、縁側とはいえ、子供たちにも見える場所だ。
(子供たちの前で膝枕なんて……)
普段から人目を気にせず所構わず触れてくる信長様ではあるが、結華がいる前では、露骨なことはなさらないのに……
「っ…朱里っ…早くしろ」
「は、はい…」
仕方なく膝を差し出すと、ゴロンと無遠慮に横になり、膝を抱くようにして腰に手を回される。
「やっ…ちょっ、ダメですよ…」
「うるさいっ…」
私の膝の間に顔を埋めるような形で横になる信長様は、頼りなくて子供みたいに可愛かった。
(ふふっ…信長様…拗ねてる子供みたいで可愛いっ…)