第72章 淡雪の恋
邪な妄想に心を奪われつつあったその時、天主へ続く階段を昇ってくる微かな足音の気配を感じる。
手にしていた張型を箱に戻すと、しっかりと蓋を閉め、文机の端に寄せて置く。
光秀もまた、気配に気付いたのだろう…いつの間にか、すっと居住まいを正して、俺に向き直っていた。
「…信長様?入ってもいいですか?」
襖の前で遠慮がちに掛けられる、愛しい女の声に、光秀の前だというのに自然と頬が緩む。
「ん、入れ」
そっと襖を開けた朱里の顔が驚いたように固まる。
「っ…あっ、光秀さん…ごめんなさい…まだお仕事中でしたか?」
朱里は、俺と光秀を交互に見遣りながら、落ち着かない様子で夜着の襟元をかき合わせ、上から羽織っている羽織の袖をキュッと押さえた。
湯浴みを済ませてきたのだろう、ほんのりと蒸気した頬が堪らなく色っぽい。
夜着に包まれたその身体からも、シャボンの良い香りがした。
(俺としたことが、抜かったな…光秀をもっと早く退室させておけばよかった。朱里のこのような艶めかしい姿を他の男に見られるとは…)
相手が光秀とはいえ、腹立たしい。
「いや、今終わったところだ」
チラリと光秀に目線を送ると、光秀も心得たもので、サッと頭を下げて退室の姿勢を示す。
「……では御館様、私はこれにて…」
「…ああ、引き続き、西の動向を探れ」
「はっ!失礼致します…朱里、邪魔をしたな」
意味深な微笑を浮かべる光秀に、朱里もまたぎこちなく微笑んでみせた。
「あっ、いえ…お疲れ様でした、光秀さん」
来た時と同様に、音をさせずに部屋を出て行く光秀を見送って、朱里の方へ目をやると、緊張で固くなっていた身体の力がほおっと抜けているところだった。
「…このような時間に光秀さんが来られるなんて…よくない知らせ…ですか?」
不安そうな顔で遠慮がちに尋ねてくる。
「いや、大したことはない。西国でちょっとな…どうということはない小競り合いだ」
「っ…そうですか…大事にならねばよいですね…」
心配そうに眉尻を下げた朱里は、その視線を文机の上に留めて、不思議そうに目を瞬かせた。
(あれ?こんな箱、ここにあったっけ??)
「信長様、この箱は…?こんなもの、ここにありました?」
(湯浴みの前にここで夕餉を頂いた時には、なかったはずだけど……光秀さんが持ってきたのかな?)