第68章 おあずけ
渋々ながらも皆に背中を押された家康は、広間を出た後、朱里の自室を訪ねることになる。
「……朱里、いる?俺だけど……」
「…家康?どうぞ……」
明らかに元気のない声で返事が返ってきたため、家康は急に心配になってくる。
「朱里、あんた、大丈夫?その…信長様と、上手くいったの?」
「っ…家康っ…私っ、どうしよう…信長様に嫌われちゃったら…生きていけないよ…っ…」
「はぁ?なんで、そんなことに…」
思い詰めて今にも泣き出しそうな朱里を宥めながら、昨夜の顛末を聞いた家康は、予想外の結果にかける言葉が浮かばないでいた。
(予想外だったな…まさか信長様が、その状況で朱里に手を出さないなんて…)
数日に渡る『おあずけ』状態の後に、甘く誘惑されれば、健全な男なら誰でも簡単に食いつくだろう。
しかも、あの秘薬は結構な効き目だったはずなのだ。
いかに信長様とはいえ、すっぽんの生き血酒と一緒に飲めば、かなりの効果が出ていたに違いない。
それにも関わらず、何にもしなかったなんて……
(なんていう精神力だよ…あの人は、全く…)
信長の強靭な精神力に呆れつつも、その意図するところが理解できない。
愛しい女の方から誘われて、ようやく交われるというのに、拒否するというのは…男の意地、だろうか。
女の策に乗って流されるのを、良しとなさらなかった、ということか……難しい人だ。
朱里はきっと、あの人のそんな複雑な感情なんて分からなかっただろう。
「……朱里、信長様とちゃんと話しなよ。あんたが信長様に『おあずけ』してた理由も…全部、ね」
「っ…でもっ……信長様は、子作りの為だけにする閨事を嫌がられるの…だから、確実に身籠りたいから我慢して、なんて、私、言えなかった…」
「うん…でも、言わないと伝わらないこともあるよ?」
俯く朱里の頭を、ぽんぽんと撫でてあげる。
(ほんと、二人とも、妙なところで不器用なんだから……あーあ、世話が焼ける)
信長様も今頃、朱里の真意が分からなくて、もやもやしているのだろうか…と思いを馳せるのだった。