第60章 京へ
「あっ、いえ…私は…見るだけで…」
「遠慮はいらん、好きなものを買ってやる」
「やっ、でも…高いですし…」
「櫛ひとつで、貴様の笑顔が見られるのならば安いものだ」
「っ…吉様っ…」
そっと手の甲で頬を撫でると、分かりやすく顔を朱に染める。
そんな初心な反応が堪らなく男心を擽るのだが……本人はきっと、気付いてもいまい。
朱里は、迷いながらも、一つの櫛を選ぶ。
それは、小さな花と蝶の柄の繊細な蒔絵が美しい櫛だった。
「吉様っ、ありがとうございます!大事に使いますね」
店の者が丁寧に包装してくれた櫛を、大事そうに両手で受け取って、胸元に抱きながら、花が咲くような笑顔を俺に向ける。
純粋で眩しくて
心をぎゅーっと鷲掴みにされるような笑顔
(京の町中でなければ、すぐさま口づけているところだな)
『櫛を贈る』行為には、求婚の意味があるらしいと、いつかどこかで聞いた話がふっと記憶に蘇る。
『苦労(く)を共に乗り越えて、死(し)する時まで末永く共に生きよう』
そういう意味を込めて、男は好いた女子に贈るのだと言う。
(貴様は既に俺のものだが…その櫛に、改めて貴様への永遠(とわ)の愛を誓うのも悪くない)
溢れるような笑顔を見せる朱里を満足げに見つめながら、信長はこの幸福な時間に酔いしれていた。
ひとしきり彼方此方の店先を覗いた後、近くにあった茶屋で休憩をすることにする。
「疲れたか?」
茶と団子を注文し、店の者が奥へと去った後、はぁ〜と溜めていたように息を吐いた朱里に声を掛ける。
「いいえっ、全然!もう、珍しいものばかりで…愉しくて…」
「ふっ…まるで童のようだな、はしゃぎおって」
「だって、ほんと愉しくて…信長様と京で逢瀬ができるなんて…っ…あっ…!」
小鳥が囀るように嬉々とした声を上げる口を、人差し指の指先で、ぷにゅっと押さえて、軽く睨んでやる。
「『吉様』、だろう?」
「っ…あっ、ごめんなさい…んっ…やっ…」
下唇を撫でるように、指先をつーっと滑らせると、朱里の身体がビクッと震える。
相変わらず敏感な身体だ
「くくっ…言いつけを守れぬとは、よくないな。今すぐここで仕置きをしてやろうか?」
「あっ、んっ…お仕置きなんて、そんなっ……」