第60章 京へ
翌日の昼下がり
信長様は、約束どおり私を京の町へと連れて行ってくれた。
昨日、秀吉さんが整理した公家の方々からの書簡の多くは、信長様に謁見を願う内容のものだったらしく、本能寺は今朝は朝早くから訪問客が次々に訪れていたのだけれど、信長様はそれら全てを秀吉さんと光秀さんに押し付けて、半ば強引に私を連れ出したのだった。
「あ、あのっ、信長様…本当によかったのですか??
あのまま出てきてしまって…秀吉さん達、困ってるんじゃ……」
「構わん。公家どもの用事は、どうせ、つまらん挨拶か金の無心であろう。俺が会わずとも、秀吉らが上手くやる。
それよりも……『信長様』ではない、『吉(きち)』と呼べ、と言うたであろう?」
「っ…あっ…吉様…?」
戸惑いを隠せないまま消え入るような声で呼びかけた私の隣には、いつもの着流しに純白の羽織を纏った信長様ではなく、もっと気軽な軽装の着物を身に纏い、きちんと袴をつけた『吉様』がいる。
信長様は、京では人目につきたくないからと仰り、今日の逢瀬では、一介の武士と恋仲の娘という設定で二人とも変装をすることになったのだった。
私もまた、いつもより装飾を抑えた身軽な小袖姿で、さながら城務めの侍女といったところだ。
(『吉様』って呼び慣れないな…すぐ間違えちゃう…)
「あのっ、なんで『吉様』なんですか??」
「『吉法師』の『吉』だ。元服前に尾張の国中を走り回っていた頃に、領民達にそう呼ばれておった」
ニヤッと悪戯っぽい笑みを見せる信長様は、何だかとても愉しそうだ。
「ふっ…貴様のそのような格好も、悪くないな」
「っ…き、吉様も…袴姿、素敵です」
見慣れない衣装の信長様は、いつも以上に格好良くて、見ているだけでドキドキしてしまう。
(昨日の正装といい、今日の袴姿といい、信長様ってほんと、何を着ておられても素敵だな……はぁ…)
「…朱里、行くぞ」
差し伸べられた手に、自身の手を重ねると、きゅっと握られて、傍に引き寄せられる。
肩先にコツンっと頭が触れて、信長様の顔を見上げると、全て包み込むような優しい微笑みが降ってくる。
「っ…はいっ、吉様…」