第60章 京へ
「……文を書いておられたのですか?」
墨を乾かすべく、書き終わった文がいくつも広げられている、部屋の中の光景を見回しながら、朱里が問いかける。
「ああ、上洛に先駆けた、京の諸方面宛ての文だ」
「随分と多いのですね。此度のご上洛では、幾日ほど京へご滞在なされるのですか?」
「此度の用事は、帝への拝謁だけだ。
すぐ終わる。
朱里……此度は、貴様も京へ同道せよ」
「……っえ?ええっ?」
「京へは行ったことがない、一度は行ってみたい、と言っておったであろう?連れて行ってやる」
「えっ…あっ…でも…信長様はご公務で行かれますのに……」
戸惑いを隠さずに困ったような顔で言い淀む。
「構わん。帝への拝謁を終えたら、後の雑事は秀吉と光秀に任せる。回りくどい公家どもの相手は性に合わん。
光秀に任せておけば、彼奴が適当にやる。
たまには、京で逢瀬をするのも悪くないであろう?」
「ふふ…信長様ったら…」
困ったような顔をしながらも、花弁が綻ぶような嬉しそうな笑顔を見せる。
俺の公務の邪魔にならぬようにと遠慮をする気持ちがあるのだろうが、やはり京へは行ってみたかったのだろう。
新しい城へ入ってからも何かと忙しく、朱里を城下へ連れて行ってやるという約束も果たせていない。
そんな中での朝廷からの上洛要請だ。
安土よりも京へは近くなったとはいえ、数日、朱里を一人城へ残していくのは忍びなかった。
朱里を京の町衆の目に晒すのは、正直気が進まぬが、喜ぶ顔が見られるのならばそれもまた悪くない。
少し温くなった茶をひと息に飲み干すと、口内に爽やかな苦みが広がり、思考がすっきりとする。
朱里との京での逢瀬を想像すると、面倒に感じていた文を書く作業もまた楽しいものに思えてきて、信長は再び筆を取り、文を書き進めていくのだった。