第57章 光秀の閨房指南
光秀と朱里が妖しい密談を繰り広げている、その同じ頃、信長は堺にいた。
京での諸事もあらかた片付き、大坂城の視察も終えて、ひと息ついたところで、今井宗久ら堺の豪商達の求めに応じて、茶会を催していたのだ。
「信長様、新しい城へはいつ頃お移りで?」
宗久が、点てた茶を置きながらゆったりとした口調で聞いてくる。
目の前に置かれた茶碗からふわりと香る芳しい香りを堪能しながら、滑らかに泡の立つ抹茶をくいっと口に含む。
熱過ぎず温過ぎず、丁度良い温度の抹茶が、口内に爽やかな苦みを残したまま喉を通り過ぎていくのを、信長はゆっくりと味わう。
しゅっ、しゅっ、と茶釜で湯が沸く音だけが茶室内に響く。
飾り気のない、それでいて上品な趣きのある、宗久らしい茶室だ。
「……ん、そうだな…もうふた月もすれば移れるであろう。ほぼ完成しているのでな」
「それはようございました。信長様が大坂城に入られれば、彼の地も大いに賑わいを見せましょうぞ」
「ああ、安土以上の賑わいのある城下にするつもりだ。貴様にもまた無理を言うやも知れんが、その時は頼むぞ」
「はっ、お任せ下され。時に、此度のご上洛、奥方様はご一緒ではなかったのですかな?私を始め、堺の会合衆は皆、噂に名高い信長様の奥方様を拝見できるかと思っておったのですが…」
「ん?」
「信長様の奥方様は天女のようにお美しい、それゆえ信長様は側室も側女も持たれない、奥方様一筋なのだ、と堺では評判でございますよ」
「…っ……」
「あまりにご寵愛が深いゆえ、奥方様を城からお出しにならぬ、それ故に滅多にお目にかかれぬ御方だと…大層な噂になっておりますよ?」
ニッコリと屈託のない笑顔を見せる宗久に、俺としたことが、なんと返してよいか分からず押し黙ってしまった。
「信長様?」
「っ…いや…城移りが済んだら、こちらへも連れて来る」
「おおっ、では楽しみにお待ちしておりますよ!」
茶会を終えて京の宿所へ戻ってからも、信長は宗久の言った言葉が頭から離れなかった。
(俺は朱里を城から出さず、その自由を奪っているのだろうか……)
朱里が城下で毛利元就に攫われてからというもの、俺は自分と一緒でなければ城下へ行くことを禁じてきた。
そのため朱里が城下へ下りる頻度は格段に減ってしまい、それが『城から出さない』という噂になってしまったのか。