第56章 秀吉の縁談
「はぁ〜、危ないところでしたね、信長様?…っんん!?」
ーちゅっ ちゅううぅ!
「んんっ!?の、信長さま…なにを…!?」
信長様の手を引いたはずが、いつの間にかその腕の中に囚われていて、唇が塞がれている。
強引に唇を割って舌が挿し込まれると、唾液を絡めて深く貪られていく。
角度を変えて何度も唇が重ねられた後、漸く離れていく頃には思考が覚束なくなっていた。
「っ…はぁ…はぁ…なっ…信長様??」
戸惑ったまま、少し非難めいた目線を向けると、信長様は悪戯が成功した子供のようにニヤニヤと笑っている。
「ふっ…人の逢瀬を見ているだけではつまらんだろう?」
「!?(なんてこと言うのっ)」
結局、その後も路地裏で信長様にあちこち乱されてしまい、気がついた時には秀吉さん達を見失っていたのだった。
==================
その日の夜、天主で書簡の整理をしていた信長は、気配を感じて、そっと筆を置く。
「……御館様…」
「秀吉か…入れ」
スッと遠慮がちに開かれた襖の前で平伏する秀吉は、何かに悩み惑うかのように、なかなか部屋の中に入ってこようとしない。
痺れを切らして声を掛けかけたその時、秀吉がゆっくりと顔を上げる。
その顔はしかし、いまだ迷いが断ち切れぬようであった。
「……御館様、本日はお休みを頂きありがとうございました」
「……ん、どうであった?」
「っ…はっ…」
「………………」
「………桜姫は…俺には勿体ない方だと…やっぱり、俺にはまだ妻など………」
がっくりと肩を落として項垂れたまま、ぽつりぽつりと呟くように言う秀吉に、信長は、はぁ〜っと大きく溜め息を吐く。
「…………そんなに、市が好きか?」
「っ…御館様っ…?」
「たわけっ、俺が知らぬとでも思ったか?そんな分かりやすい顔をしおって……
だが……市はダメだ。どれだけ想おうとも、市が貴様に振り向くことはない。あやつは今も長政のことを想っておる…今後、再嫁することはないだろう…貴様もそれは分かっておろう?」
「くっ…それでも…俺は…」
唇を噛み、膝に乗せた拳を堪えるように強く握り締める秀吉に、信長はかける言葉が見つからなかった。
(人を想う気持ちは意のままにはならぬ…簡単には変えられない。
だからこそ……愛とは…こんなにも尊いものなのだろうか…)