第56章 秀吉の縁談
その日の夜、信長はひとり、天主の廻縁に出て月を見ながら酒を飲んでいた。
朱里は今宵、桜姫と女どうし何やら話が弾んでいるらしく、まだ天主には来ていない。
(朱里は随分と桜姫を気に入ったようだが……あまり肩入れせぬように言っておくべきか…
なかなか気立ての良さそうな姫ではあったが、秀吉はやはり、この見合いには乗り気ではないようだったしな……)
秀吉が、自身の縁組に消極的なのは分かっていた……その理由も。
秀吉には想い人がいる。
何年も前からずっと想い続けている。
だが…………それは……絶対に叶うことのない恋だ。
秀吉自身もそれは分かっているはず……分かってはいても、断ち切れぬのだろう。
憧れにも似たその想いを、叶えられぬと分かっていながら抱き続けているのだ。
その想いは、俺であろうと叶えてはやれぬ。
諦めて、この縁組を受けよ、と俺が命じれば、たぶん彼奴は黙って受け入れるだろう。
俺の、織田家の、益になる縁組ならば、自身の気持ちを偽ってでも受け入れる……俺の右腕は、良くも悪くもそういう男だ。
「人の気持ちとは、意のままにならぬものだな……」
冴え冴えと輝く月の美しさに目を細めながら、晴れぬ心を誤魔化すかのように酒を煽る。
冷えた酒が、喉を通り、胃の腑に落ちていく度に、心の奥底までもが冷たく冷えていく心地がして、信長は酔えぬ酒を干した盃をしばらくの間、手の内で弄んでいた。