第55章 初恋の代償
「…はぁ」
信長様は大きく一つ息を吐き出すと、私の上から身体を起こす。
冷たく固い床に押し付けられていた所為で痛む背中を起こし、乱された着物の前を慌てて掻き合わせるが、帯も緩んでしまっていて、だらしなく乱れている。
髪も、よれてクシャクシャになっているのを手で何度か撫でつけてみるが、元どおりとはいかない。
(っ…光秀さんに変に思われちゃう……)
音もなく襖を開けて入って来た光秀は、さりげなく室内を見回し、信長と朱里の様子を窺う。
室内に漂う濃密な空気と、身体も心も乱れた様子の朱里の姿に、何事があったのか瞬時に悟った光秀は、着物を乱した朱里のあられもない姿を見ぬように視線を逸らしつつ、声をかける。
「朱里、秀吉がお前を探していたぞ…早く行ってやるといい」
「あ…はい…」
光秀の言葉にほっとした表情を見せた朱里は、チラッと信長の方へ視線を投げたあと、胸元を押さえて足早に天主を出て行く。
階段を駆け降りる足音が遠ざかっていくのを聞きながら、光秀は信長へ首を垂れる。
「…ご無礼を致しました、御館様」
「ふっ…心にもないことを…いつから聞いていた?」
光秀の気配には、とうに気付いていた。
常ならば室内の様子を察して黙って下がるはずの此奴が、無礼を承知で敢えて声を掛けてきた真意も分かっている。
だが、不思議と腹は立たなかった。
寧ろ、ほっとしている…あのままでは、怒りに任せて取り返しがつかなくなるほど朱里を傷つけてしまいそうだった。
「御館様…」
「光秀……今の俺は無様か?嫉妬など、俺には無縁のものだと思っていた。嫉妬などというものは、自分に自信がない者が抱く醜い感情だと……そう思っていたのだがな」
「御館様にとって、朱里がそれだけ大切な存在であるということでしょう……無様だなどと…申されますな」
朱里が言ったように、城下を案内することを許可したのは、そもそも己自身だった。
幼馴染に安土の城下を見せたい、という妻の願いを叶えてやり、余裕のある様を見せたつもりだったが、内心は余裕などこれっぽっちもなかった。
あの男が朱里の唇を奪った、あの瞬間、身体中を駆け巡る嫉妬の炎に身を焼かれて、気が狂いそうだった。
(朱里は俺のものだ…俺だけの……)