第55章 初恋の代償
光秀が退出していくのを見送り、政務の続きをしようと筆を持ったものの、心が何かどす黒いもので汚れているようにモヤモヤとし、考えが整理できないために、一向に筆が進まない。
「チッ…」
信長は軽く舌打ちすると、諦めて筆を投げる。
乱暴に投げられた筆はコロコロと転がって、真っ白い紙の上に墨がじんわりと染みを作っていく。
真っ白の紙に広がる真っ黒い墨の跡
その光景はまるで、己の心の内が、じわじわとどす黒い感情で染まっていく様を見ているようだった。
『北条高政』
俺の知らない朱里を知る男
過去など気にならない、とそう思っていたのに、今は無性に気になって仕方がない。
彼奴が朱里の名前を呼んだ時、何故だかひどく苛々して心が乱れた。
秀吉ら武将達が呼んでも、何とも思わなかったというのに………
彼奴へ向けられる朱里のあの笑顔……それもまた見ていると苛立ちが抑えられない。
己の感情を制御できないなど、初めてのことだった。
この感情は一体何なのだ……
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信長様から許可を得て、高政に安土城下を案内するため、今日は二人だけで出かけている。
朝の澄んだ空気が爽やかで、心地良い。
(………信長様、城下へ下りるの、意外とあっさり許して下さったな…『貴様の好きにしろ』って仰って…もっと反対されるかと思ってたけど……)
私は普段は、信長様と一緒でないと城下へは行けない。
自分と一緒でないと心配だから、と信長様が許して下さらないからだ。
でも今回は……拍子抜けするほどあっさりと許して下さった。
ただ………信長様は私と目を合わせて話して下さらなかった。
あの広間での対面の場以来、何となくよそよそしい信長様の態度が気にはかかっていたけれど、私は幼馴染みとの久しぶりの再会に浮かれていて、深く考えられずにいたのだった。
「朱里」
名を呼ばれて慌てて隣を見ると、高政が心配そうに覗き込んでいた。
「あっ、ごめん…何?」
「……いや、別に何もないんだけど……朱里、本当によかったのか?二人で城下へなんて……信長様はお許し下さったのか?」
「うんっ!心配しないで、信長様はお優しい方なのよ」
「そっか…ならいいけど…こうして二人で歩いてると、昔を思い出すな。よく二人で城を抜け出したよな」
「ふふ、懐かしいね」