第54章 記憶
躊躇う私の腕を、信長様が急に強く引き寄せる。
「っ…あっ…」
体勢を崩してよろめく私の身体を抱き留めた信長様は、鼻先が触れ合うほどの距離まで顔を近づけてくる。
(っ…口づけされるの??)
思わず身体を固くして身構えてしまった私の顔のすぐそばで、ふっと笑う気配がする。
(えっ?あれ??)
慌てて顔を上げた私に、信長様は意地悪そうな笑みを向ける。
口元は笑みを浮かべていても、その瞳は冷たく凍ったままだった。
「くくっ…口づけて欲しかったか?」
「ええっ…いえっ…そんな…」
信長様との口づけは嬉しいはずなのに今は少し複雑な気分だった。
目の前の信長様の深紅の瞳には私が映っていないことが分かってしまったから……
向けられる冷たい眼差しに耐えられず、涙が滲む目元を見られないようにと下を向く。
(本当に覚えていらっしゃらないんだ、私のこと…愛したことも愛されたことも…何もかも…)
そんな私の心を見透かしたように、信長様は無言で私の身体を離す。
「…信長様?」
「…今宵はもうよい、下がれ」
冷たく突き放すように言うと背を向けられる。
すぐそばに、手を伸ばせば触れられる距離にいるのに、その大きな背中は私を拒絶するかのようで……
その夜、私はそれ以上、声を掛けることができずに天主を出たのだった。
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「…行ったか…」
ふぅ、と溜めていたものを吐き出すように大きく一つ息を吐くと、信長は脇息に身体を預けた。
北条家の出だというあの姫が俺の正室だと、秀吉は言う。
この俺が自ら望んで妻に迎えた女、だと。
人一倍忠義心が熱く生真面目な彼奴が俺に嘘を言うことなどないだろうが、自分に妻子がいるなど全く実感が湧かない。
触れ合えば何か思い出すかと思い、呼び出したが……涙が滲む目元を見てしまい、それ以上触れることができなかった。
強引に奪うこともできた…これまでの俺ならそうしていた。
だが……何故だか分からぬが…できなかった。
あの女の涙を見るのが怖かった。
「っ…くっ…」
深く考えようとすると、ズキンっとこめかみの辺りが痛み出す。
何かとても大事なことを忘れているような気がするのに、それが何か思い出せない。
思い通りにならない自分が、もどかしい……